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トイレに代理は送れない

『趙州録』の大好きな言葉に、「尿は是れ小事なるも、須是(すべか)らく老僧(われ)自ら去(ゆ)きて始めて得(よ)し」というのがある。意味は「小便というのはつまらぬことだ。だが、必ず自分で行くしかない」ということだが、これは仏教というか、自己の認知を変えていくことを目指すシステム一般に共通する、基本的なモットーであると思う。


例えば、仏教というのは一般に「無我(anattā)」を説くものだと言われているが、同時にそれは「解放への道(the path to liberation)」であると言われることもあるし、「真の自由」を説くものだともされることがある。

だが、「解放への道」と言うからには、「解放」される何者かが存在しなければいけないことになるし、「真の自由」というからには、その「自由」を行使する「主体」が必要とされることになる。では、その「主体」とは何であるのか。仏教は、「無我説」を語るものではなかったのか。

こうした質問を、ツイッターやノートのコメント欄でされることがしばしばあるのだが、訊きたくなる気持ちは十分に理解できるのだけれど、これは残念ながら、少なくともツイッターやノートのコメント欄の範囲では、答えようのない問いである。この質問に答えるためには、「それを問うているあなたは何者ですか?」ということを、まず問い返さなくてはならないし、その問題を質問者の方自身に深めていただくことで、彼(女)の認知の内容が変わらなければ、単なる言葉に過ぎないものが、その人にとっての「回答」となることも、決して起こり得ないからである。


実際、ゴータマ・ブッダ自身も「無我(anattā)」を説きながら、「それでは我(attā)というのは存在するのですかしないのですか」と直球の質問をされたときには、沈黙を守って回答を与えていない。質問者の認知が現状のままである限り、「ある」と答えても「ない」と答えても、どちらも誤りになるほかないからである。

経典では、こうした事情がまた、目の見えない人と色との関係にも喩えられる。目の見えない人が、「私には認知できないから色は存在しない」という主張をしても、それは一般には受け入れられないが、だからといって、その人に色に関する「説明」をいくらしても、認知したことのない「色」について、彼(女)に正確な理解を与えられるわけではない。もちろん、「説明」を試みることが不可能であるというわけではないが、それを何時間、何日、何年続けるよりも、いちばんよいのは、本人が視力を獲得して、色の存在を自ら確認することである。


おわかりのとおり、この「自ら確認するしかない」ということが、趙州の言う、「老僧自ら去きて始めて得し」ということである。裏返しに言えば、この種の問題に関して、自身の認知は変えないままで、「とりあえず『答え』を教えてください」と要求するということは、「私の代わりに小便をしてきてくれませんか」と、他人に依頼するのと一般であるということだ。

もちろん、同時に趙州が述べているように、この種のことは、「わかった」からといってどうということもない、ありていに言えば「つまらぬこと」である。だから、「別にそんなことは俺の人生にとってどうでもいい」というのであれば、それはそれで全く構わないだろうと私は思う。

ただ、「それでもわかりたい」というのであれば、その場合に他者ができることは、「答え」を語ることではなくて、(ゴータマ・ブッダがそうしたように)そのための「方法」を開示することである。これについては、既に『自由への旅』という最高のマニュアル本を翻訳して参照可能にしてあるので、そちらをお読みになっていただきたい。

その上で、やはり理屈についても明らかにしないと我慢がならないという人のためには、『仏教思想のゼロポイント』という本が用意されているわけだが、こちらはまだ皆さんのお手元に届く状態になっていないので、早く出版されてほしいものだと思っている。


※今日のおまけ写真は、タイで見かけた観音廟(?)。テーラワーダのお寺の境内の中に、普通にあったので驚きました(^_^;)

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