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「文字通り」で「直接的」な世界

「いまは裸婦像というと『裸→エロい→性的興味の対象→悪い』というような理解が一般的になって、作品化されることによる抽象化や、『性欲そのままのもの』と『性欲が昇華されたもの』の区別といった感覚もなくなってしまった」
「あらゆることについて両義性や多義性は好まれないようになり、すべてに『文字通り』が求められるようになった」

 こうした意見を目にしながら、やはりこれも以前のエントリで述べたSNS時代の「効果」の一つであろうと思うなどした。もちろん、よく言われるように「世の中が多様化したから」ということもあるだろうが、それよりも「その多様が可視化され、明示的に議論の前提とされるようになったこと」のほうが、この問題に関しては大きく影響しているであろうと個人的には考えている、ということである(※ただし、当然のことながら両者は相互作用しつつ相手を強化し合う関係でもある)。

 世の中が多様であるということは、たとえば裸婦像について、「もっぱらエロいものだと思う」「エロいと見ることもできるが、そうでない見方もあると知っている」「エロいだなんて考えたこともない」などといった人たちが社会に混在している状態だと(話の都合上、ここでは少々限定的に)考えておこう。このような感受や思想の多様性自体は、とくに近代以降の社会においては普通にあることであって、それでも広く発言を社会に流布させる権能が地位や教養のある人に集中している状態であれば、裸婦像が問題になるようなことは起きにくい。その種の「知的に選ばれた人たち」が、「これをエロいと思うのはバカだ」と言っておけば、それを当該社会の建前として押しきることが、とりあえずは可能だからである。

 しかし、ご承知のようにインターネット・SNS社会である現代日本においては、その事情は妥当しない。先日のエントリでも述べたように、ウェブ上のSNSなどでは、誰の発言でも原理的には世界中からアクセス可能だという意味において、全ての人が(少なくとも建前上は)対等であり、また実際にも「匿名の一般人」の発言が「知的に選ばれた人」のそれよりも大きな影響力を有するということがしばしばある。さんざん指摘されているとおり、このような環境においてそれまで社会に覆在していた多様性は(よかれ悪しかれ)隠しようもなく顕在化する。

 このように多様性が可視化される(そして、そのことによってさらに多様性が増幅する)社会においては、より直接的(敢えて言えば、「動物的」)で「文字通り」の感受や理解こそが、最も多くの言及と、そこからしばしば帰結する最大公約数的な支持を受けて、広汎に流通することになりがちである。裸婦像の例で言えば、「裸だからエロい」という感覚は(とりあえずのものとしては)ほとんどの人に理解できるが、「そういう直接性を超えて、単なる性的興味の対象としてではなくそれを見る仕方はあるし、そのほうが望ましい」という感覚は、ある種の教養を共有している、一部のサークルのあいだにしか通用しないものだからである。

 要するに、多様な感受や理解の混在がそのまま顕在的に主張される社会においては、一部のサークルメンバーのみに共有される教養に基づいた解釈は支配的な地位を保つことができず、より「文字通り」で「直接的」な感受や理解を述べる言説が最大公約数的に人々の語るところとなりやすいので、少なくとも「議論の前提」もしくは「出発点」は、そこに置かれざるを得なくなるということである。

 このことを「人類の文化的退化」だと考えるか、「くだらぬ権威が崩壊して結構なこと」だと考えるかは人それぞれであると思うが、そのようにして言論空間において支配的になった「文字通り」で「直接的」な感受や理解が、数を恃んで相対的少数者の表現を公共空間から排除するような振る舞いに出ることがあるならば、それには決して私は賛成しない。そのように「あなたにも素朴な感覚でわかるよね?」の理屈で相対的少数者の表現を排除していった先に残るのは、多様性などとは縁遠い、「みんなの普通の感覚」という同調圧力によって支配された、息の詰まるようなディストピアだと思うからだ。

(※以下は、購読者向けのコメント。「◯◯天国」のツイッターについて)

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