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「現実」や「事実」が変わるということ

数日前の記事に、インド文化圏の人々にとっては輪廻転生が「事実」であるということを書いた。私たち日本人の多くが死んだら無になるという物語をなんとなく「事実」であると信じているのと同様に、インド文化圏の多くの人々が、輪廻という物語をなんとなく「事実」であると信じているという話である。

このような書き方をすると、それを読んだ日本人の方の中には、「日本人は『科学的』だから輪廻を信じず、インド文化圏の人々は『非科学的』だから輪廻を信じているのだ」というふうに理解された人もいたかもしれない。しかし、私の見方では、それはおそらく誤解である。

インド人というのは、いまでもIT技術者を多く輩出することで有名だが、もともと数理的思考に強い人々である。ゼロがインドで発見されたことはよく知られているし、インド人の著名な数学者や科学者も多くいる。そして、日本人と同等かそれ以上の自然科学に関する知識や能力を有していて、同時に輪廻も信じている科学者や技術者というのは、インドにはいくらでも存在するのである。それは、優秀な科学者であって同時に敬虔なキリスト教徒でもある人々が、欧米にいくらでも存在するのと同じことだ。

日本人には、「科学」と「宗教」が端的な対義語であり、「科学的」であることと「宗教的」であることは明白な矛盾であると考えている人たちがわりと多いが、これは事実に反している。世界の現実を見れば、「科学的」であると同時に「宗教的」でもある人々は多く存在しているのであり、異なっているのは、それぞれの分野から得られる知識を、己の世界観のどこに位置づけるのかという、教養(Bildung)のあり方だけだ。

日本人の多くが、「科学的であれば輪廻や宗教を信じないはずだ」と考えるのは、単に私たちの教養・世界観の中で、「科学」や「輪廻」や「宗教」がそのように位置づけられているというだけのことであって、それ自体は「科学的」な知識や思考の問題ではなく、むしろ「文化」の問題だというのが、あの記事を通じて私の示唆したかったことである。

注を付けておきたいエントリがもう一つ。こちらは一昨日の記事である。当該の記事で、私はマインドフルネスの瞑想の「限界」について言及したが、あれだけの記述では、その「限界」が実際よりもずいぶん浅く見積もられてしまう危険性があると考えた。日本においては、まだまだ多くの人々が、瞑想というのを、己の認知の範囲をそのままにして、「考え方」だけを変えるものだと思いなしているからである。

「考え方」というのは、自分が認知したものをリソースとして、そこから抽出した概念を組み合わせることにより、形成されるものである。そして、それを変えるということは、その概念の抽出法、もしくはその組み合わせの仕方を変更することだ。この場合、いずれにせよ「考え方」を形成するためのリソースである、認知の内容自体は変わっていない。
(概念のフレームワークが変更されることで、認知の内容も変化するということは実際にあり得るが、ここではひとまず、そのことを捨象する。)

だが、瞑想、少なくとも、仏教において「悟り」を目指す瞑想というのは、この種の「考え方の変更」とは性質が異なる。それは、概念の抽出法や、その組み合わせの仕方を変えようとするというよりは、認知の内容それ自体を変更しようとする性質のものであるし、実践が進めば、そのことは修行者に実際に生じる。言い換えれば、仏教の瞑想というのは、「現実」に対する「捉え方」を変えようとするものであるというよりは、「現実」(クオリアの世界、即ち、私たちにとっての「生活世界」)の内容そのものを、変更もしくは拡大しようとするものであるということだ。

もちろん、仏教ではそのように変更もしくは拡大された認知のほうが本当の「現実」であり、「ありのまま(如実)」であると考える。そのことの是非はともかくとしても、瞑想というのが単に日常的な意味での「考え方」や「態度」を変えてみるといった行為ではなくて、その前提となっている認知それ自体を変更する試みであるということは、しっかりと押さえておかねばならないことだ。

先日の記事で書いたとおり、マインドフルネスの瞑想をしたからといって、直ちに「処世」が上手くいくわけではない。ただ、瞑想者にとっては、「処世」の前提となる「現実」それ自体の内容が変わってしまうことも事実だから、それは彼(女)の実際の「処世」やそこでの感受のあり方にも、確実に影響を与えることになる。それはやはり、瞑想の「効果」として、強調しておくべきことであろうと思う。



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