見出し画像

「流れ」と制約

久しぶりに語学の復習をやってみたら、すっかり色々と忘れていて絶望先生。語学というのはマラソンに似ていて、続けなければどうにもならないし、また開始してからペースに乗るまでがいちばんきつい。これはしばらく、リハビリの日々が続きそうだ。

思想的な文章を書く時に、私はいつも、話しに聞く将棋指しのように頭を使う。まずは、あまり細かいことを考えずに言葉の流れに身を任せて、そうして直観的な「最善手」を見定める。然るのちに、論理や筋道の検討をはじめて、それで必要な修正を入れていく。そのようにして、最終的に論理と流れの調和した文章に仕上げていくわけである。この場合、「流れ」というのは「言葉のリズム」と言い換えてもよい。

自分にとって自然だと感じられる言葉の流れは思考をある程度規定するが、自分にとって当然だと考えられる論理の筋道も思考をある程度規定する。私自身には、放っておいたら己を論理の筋道で縛り上げて、自身をその限界内に規定しつくしてしまおうとする傾向があるので、そこから解放されるために、敢えてまずは直観を自由に遊ばせることを試みているわけだ。

言葉には独特の流れとリズムがあるから、それに溺れながら語ってしまうことで、無自覚なままに自己を不自由にしてしまうということはしばしば起こる。しかし、ならば流れをいっさい無視して、文章の全体を論理の意識的なコントロール下に置けばよいかというと、それはそれで別種の不自由を呼び込んでしまうのではないかと私は思う。

言うまでもないことだが、文章を論理でコントロールしようとするのは私の意識だし、「私が当然だと感じること」には、範囲と限界が常に存在している。つまり、これも言うまでもないことだが、意識の論理によってコントロールされている文章は、その意識自体が制約されているものに、同じく制約されていることになるわけだ。

私自身は、この意識の論理による制約がわりと強いほうなので、文章を書く時には、そのような「コントロールする私」を忘れるために、まずは言葉の流れに身を任せることを試みている。

もちろん、上述したように、言葉の流れやリズムにもそれ相応の制約は存在するから、それに身を任せたところで、規定性から完全に自由になれるわけでは全くない。私にできるのは、せいぜい二種類の規定性のあいだをさまようことで、そこにかすかな綻びを見出そうと望むことくらいである。

こちらの note は、まさに毎日の思考のフローを書き留めていくものだから、あまり挙証や筋道のところで逡巡しすぎずに、流れ出してきたものを、できるだけそのまま記すように努めている。棋士の比喩で言えば一分将棋のようなもので、直観的な最善手を、次々と指し続けていくイメージだ。

ゆえに数時間の持ち時間があるタイトル戦とは当然棋風も変わってくるし、後で検討してみたら、明らかな悪手を発見することもあるだろう。ただ、これはこれで正式な試合とは別の訓練にはなりそうなので、この場ではしばらく、その試みを続けていきたい。


※今日のおまけ写真は、ミャンマーの野外サッカー場。電光掲示板よりも、まずはゴールにネットを張るべきだと思うのですが(^_^;)

ここから先は

0字 / 1画像

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?