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「おかしな人」の身の処し方

 昨日の記事の続きの話になりますが、いわゆる「社会性」や「コミュ力」や「モテ力」といった、実に曖昧ではあるが、にもかかわらず社会を席巻している人間の判断基準について、その具体的な内容を「知らない/わからない」がゆえにコミュニケーションに不全感を抱え、結果として人生が困難なものになっている人たちが存在する。ならば、そういう人たちに対して、彼らが「知らない/わからない」ことを言葉にして教え、一定の訓練もしてもらうことで、彼らの人生の困難は、ずいぶんましなものになるのではないか。そのように考える人たちがいます。

 そうした考え方に対する、昨日の記事で挙げたようなものとは別の形の批判として、「人間というのは、相互に微小なものであってもとにかく差異を見いだして、それによって格差や序列を作ろうとする生き物である。ゆえに、全員がそのような『社会性』等の訓練をしてスキルが向上したとしたら、その中にまた差異が見いだされて序列が形成されるだけだから、そうした教育の試みは、結局のところ無意味である」というものがあります。

 こうした批判は、それ自体として人間や社会に対する一定の洞察を含んでおり、傾聴に値するものだと思います。ただ、私自身はそのような批判について、「究極的には(つまり、極限的な状況を仮想の中でイメージするなら)正しいが、現状においては当たっていない」と考えています。

 以下は、プライベートなことも含めて本音を相当に踏み込んで書くので、有料記事になります。内容は、冒頭に述べたような意味での「おかしな人」が、現状においては自力での「救済」を考えざるを得ない事情についての記述が半分、そして、その現状に対する「おかしな人」の身の処し方について、当事者として私から述べられるTIPSが半分です。筆者が男性ですので、とくに異性への対し方に関する記述などは男性向けのものが主になってしまいますが、購読される場合には、そのことは事前にご了承くださいませ。

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