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塔を見るたび思い出す

ミャンマー人経営の韓国料理屋に行ったら、出てきたキムチチャーハンが前回行った時よりもずいぶん大きかったので驚いた。いや、もちろん多いぶんには構わないし、量がいい加減な店なのだとこれでわかったのでよかったのだが、もし順番が逆で、今回のほうが量が少なくなっていたら、ちょっと釈然としなかったかもしれない。


ミャンマーの人たちは大体いつもそんな感じで、基本的にはおおらかに日々を過ごしているのだが、これは気候や風土などのほかに、宗教の影響も、強く作用していると思う。

昨日のエントリで、仏教の僧侶の価値は、根源的・原理的には「何かをしてくれること」ではなくて、むしろ「何もしないこと」にあるという話を書いた。ミャンマーやタイといった上座部圏の仏教国では、そのように「何もしないことをしている」僧侶たちの暮らす寺院や仏塔が、歩いていける距離にどこにでもある。

そして、これはもちろん人によることだが、例えばミャンマーならば多くの仏教徒が月に一回か、あるいはもっと熱心な人であればそれ以上に頻繁に、そうした寺院や仏塔へと足を運ぶ。そうすることで、世俗の中で「こうすればこうなる」という取引を続けながら、「何かをする(有為)」ことで生きている己のあり方をいっとき忘れて、「何もしない(無為)」という存在のモードを、再び思い出すわけである。


インド文化圏の業と輪廻の世界観では、現代日本でよく語られるような「人生は一回だけ」という発想は希薄である。私たちは何度も生まれ変わり死に変わり、何度も同じことを繰り返す。「無始無終」と言われるように、輪廻する生の時間には、始まりもなければ終わりもない。

そのように「繰り返される生」が前提の世界観では、「いま・ここ」の価値が下がるのではないかと考える人もいるが、これは意外なことに事情が逆で、例えば輪廻転生の世界観にドップリの上座部仏教が語るのは、ひたすら「いま・ここ」の現実に開かれ続けることである。放っておいたら私たちは何度でも同じことを繰り返すし、実際に繰り返してきたのだから、そうした盲目的な習慣から自身を解放するために、とりあえず「いま・ここ」だけに気づき続けて(マインドフルであって)、それ以外のことは「何もしない」という存在のモードを試しませんかと、仏教者たちは語るわけだ。

逆に私たち現代日本人の多くは、この人生が「一回限りの貴重なもの」だと思うからこそ、それを「最大限に活用」しようとして、与えられた時間をひたすらに何かしらの「結果」を得るための「手段」として消費してしまいがちだ。つまり、「人生は一回しかない」と思うからこそ、その一回で「何かを得なければ満足できない」と考えてしまい、その何かを獲得する未来のために、ひたすら現在を質に入れ続けてしまうわけである。「一回限りの貴重な人生」を大切にするために、「いま・ここ」は逆に犠牲にされてしまいがちになるという、皮肉な構図がここにあるわけだ。


もちろん、日本人のそうした生き方にも、「だからこそ素晴らしい」と言える面はあると思う。ただ、上座部圏の人たちが寺院に参詣したり仏塔に合掌したりするたびに、「いま・ここ」を他のなにもののためでもなく、ただ「いま・ここ」そのもののために大切にする生のモードを少しだけでも思い出すのは、ものすごく上手くできたシステムだなあとも感じている。


※今日のおまけ写真は、なんだか東南アジアっぽい顔立ちの仏像。仏像としては、こちらではあまり見かけない造形かもです。

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