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こじらせている自分へのエクスキューズ

哲学や宗教で人生の問題を解決しようとしてはいけない、という意見もあるようだけど、私は哲学や宗教によって解決するというか、自分の中で「ケリがつく(了期する)」ような「人生の問題」は、普通に存在すると思う。

例えば、昨日の記事で言及した「生きる虚しさ」とか「人生の意味」といった問題はその典型で、生理的な欲求や物質的な欲求、あるいは人間関係における欲求がある程度満たされていても、なお残る「十分でない感じ」、あるいは「不安」といったものに取り憑かれてしまう人たちは存在するのであって、その種の問題は宗教や哲学が主題的に扱ってきたものの一つには違いないから、そこに自分の問題の解決のヒントを求めようとすることは、何も間違っていないと思う。


ただ、世の中には「生理的な欲求や物質的な欲求、あるいは人間関係における欲求」が満たされていないことが自分の本当の悩みなのに、それの解決を哲学や宗教に求めてしまう人たちというのも存在する。これはたしかに、私もあまり賛成しない。お腹が空いているのが問題なら、料理を作って食べてしまえば済むことで、それを「よく考えることで何とかしよう」と努力しても、不幸な時間が長続きするだけではないかと思うからである。

例えば瞑想の世界でも、「いま・ここへの気づき(マインドフルネス)」を深めることを、自身が抱えている具体的な問題の解決の一助とするのはいいのだけど、中には現実の問題を忘れるために瞑想に入れ込んで、いわば「いま・ここへの逃避」を、瞑想を通じて行う人もいるそうだ。

その種の人たちは、瞑想の教師などから「あなたの実践は本当の問題からの逃避の手段になっていますよ」と指摘されると、たいへん腹を立てるそうだが、気持ちはわかるけれども、それはやはりどこかで区切りをつけなければいけない行為だと思う。「逃避の手段」として瞑想を使うというのは、現実が辛いから酒を飲むという行為と実質的には変わらないから、それを続けている限り、瞑想が本来開示してくれるはずのものも、その人には知られないことになるからである。

それに、プラクティカルな側面から考えても、生理的・物質的・関係的な欲求を哲学や宗教によって克服しようとすることは、さほどにコストパフォーマンスのよいものでもないと思う。例えば、異性にモテないことが悩みなのであれば、恋愛のマニュアル本でも読んで、そのとおりに振る舞えば済むことである。もちろん、それに成功するまでには一定の努力が必要とされるわけだが、その努力の量は、哲学や宗教によってそうした基本的な欲求を「乗り越える」ために必要とされる量よりは、ずっと少ないのではないかと個人的には思う。


とはいえ、こうしたことは、もちろん個人がそれぞれの気質にしたがって判断すればいいことで、他人が上述のような「逃避の手段」として宗教や哲学を使っていたとしても、それを直接に指摘するような余計なお世話は、私も当然していない。

ただ、「こじらせている自分」へのエクスキューズとして宗教や哲学を使用していて、その結果としてますます「こじらせ」を深めているように見える人もいるのは事実で、そういう人たちからは、ちょっと距離をとりたくなってしまうのも、また正直なところである。


※今日のおまけ写真は、マンダレーの米屋さんの母娘。タナッカー(ミャンマーの伝統的なお化粧)が可愛いですね。

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