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「無意味」という物語

この note も50を超えて記事を書きついできたわけだけど、書き手としては文章だけのコンテンツ提供だから楽に更新できるのだが、見る側としては、やはりインターフェイスの不便さを強く感じる。例えば、各所で指摘されているとおり、検索機能が実装されていないのは致命的。「フラットな場にしたいから」ということで、ランキングを作らないのはまだ理解できるとしても、自分の見たいジャンルの記事や、好きなアカウントの過去ログ検索もできないのでは、閲覧のモチベーションも上がらないだろう。

また、書き手の立場としても、例えば自分の記事などについて言及してくれている人も見つけられないのでは、相互に交流を深めることも難しい。この点は、本当に早急に改善してほしいと思う。


「人生の意味」とか「生きる理由」といった話題が出ると、とかく「意味なんてない」とか、「理由なんて妄想」などと主張したがる人たちが現れるものだけど、それはそれで、また一つの物語なのだろうなあと思う。もし本当に「全てに意味がない」なのであれば、「無意味だ」と語ることにさえ、意味は存在しないはずだからだ。

逆に言えば、「無意味だ」と敢えて発話したくなる時には、その衝動をもたらす文脈の中に、「意味」が潜在しているということ。「これは幻想だ」という指摘が意味をもつのは、どこかに「幻想ではないもの」(つまり、「現実」)が存在している時だけなのであって、本当に「全てが幻想」なのであれば、その「幻想」のことを「現実」と呼んでも何も変わらなくなってしまうのと同じことである。

要するに、意味を語る人に向かって、わざわざ「無意味だ」と言いに行きたがる人というのは、そうすることで本人の中に存在する意味への甘い憧憬を告白しているようなものなので、見ているとなんとなく気恥ずかしい感じもしてしまうのだけど、たぶん一定の年齢に達すれば、そういう行為もしなくなっていくのだろうから、あまりその種の言動に着目しても、仕方がないのかもしれない。


例えばゴータマ・ブッダの所説に対しても、「彼は全てを無意味だと語ったニヒリストだ」といった解釈をする人たちがいて、それを好む人たちも一定数は存在し続けているのだけど、私見では、これはやはり誤った解釈であると思う。

ゴータマ・ブッダが教えたのは、上述の文脈に沿って言い換えれば、本当に「全てが無意味」なのであればそんな必要はないにもかかわらず、それでも「無意味だ」と発話せずにはいられない、その衝動の根底にあるものをきちんと見つめて、それを滅尽させなさいということである。

つまり、他者の物語を「無意味だ」と指弾してまで新たな物語を形成したいと望んでしまう、それほどに人間の物語形成への志向は根強いものであるのだから、まずは自分の中にあるその衝動をよく見つめて、それを消し去る努力をしてみなさい、ということ。


ならば、その衝動(渇愛)から解放された時に、そこに物語が存在するのかどうかという点については、ゴータマ・ブッダは明示的には語っていない。それが「ある」と言おうが「ない」と言おうが、渇愛を備えた人間の認識からすれば、それは「もう一つの物語」になるしかないからである。その境地を「意味」や「無意味」というカテゴリーで把握しようとすることは、既に「物語の世界」の引力圏にある行為になるということだ。


「仏教的」な文脈から述べるとすれば、「無意味だ」と主張する人に対して問い返されるのは、「そのように語っているあなたは何者ですか?」ということである。そのことについて「自分」を脇に置いたまま「考える」のではなくて、まずはそのような発話をしたくなってしまう衝動の根底にあるものを見つめること。ゴータマ・ブッダが教えたのは、一つにはそのことであると思う。


※今日のおまけ写真は、織物をする「首長族」の女性たち。存在そのものが「観光資源」なので、色々なところに露店を出して「出稼ぎ」してます。

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