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「非人間的」な道の行く先

「仏教の入門書的なものを作らないか」という誘いを受けたので、内容について考える。日本では、いちおう「仏教ブーム」というのが細々と続いているらしいから、入門書や解説書の類は、「汗牛充棟」という言葉が比喩にならないほどに、既に大量に出版されている。そこに新しいものを付け加えるならば、そこにはそれなりの、新しい視点が必要になるだろう。

これは昔からずっと言い続けてきたことではあるのだけど、現代日本の一般的な仏教の解釈においてほとんど語られることがないのは、「ゴータマ・ブッダの教説の本筋は、いわゆる『人間的』なものでは全くない」ということだろう。いつも言っているように、彼の教えはその目的を達成しようとする弟子たちに、労働と生殖を放棄して、「異性とは目も合わせないニートになれ」と要求するものなのだから、これは当然のことである。

このように言うと、「ゴータマ・ブッダは在家向けの教えも説いていた」と必ず言われるのだが、もちろんそれは知っている(知らないわけがない)。だが、経典に見られるゴータマ・ブッダの在家者に対する教えというのは、いわゆる「施論・戒論・生天論」を中心とするもので、要するに善行を積んで来世によりよい生を得ることを説くものだから、これは彼が自ら追求し、志のある弟子にも教えた「解脱・涅槃」を目指す道とは、かなり性質の異なるものである。後者を真剣に目指す人々に対しては、ゴータマ・ブッダは出家を勧めたし、またその目標を達成した人にとっては、もはや在家の生活は続けられない、というのが、彼の基本的な立場であった。

もちろん、ゴータマ・ブッダの教えた五戒などは、「盗むな、偽るな、不倫をするな」などといった、現代日本でも普遍的に通用する徳目だから、そこ(だけ)を捉えて、彼が「人間の生きる健全な道」を説いたと主張することも、不可能ではないだろう。実際、現代日本における仏教に関する言説は、そのようにゴータマ・ブッダの説いたことから私たちにとって都合のいい部分だけを取り出して強調し、そうすることで、「仏教は科学的・合理的だ、道徳的だ、役に立つ」といった宣伝を行うことに終始するものが多い。

それが「悪い」と、私は言いたいわけではない。「法門無量」と言うくらいで、仏教には様々な語り方があってよいし、またそれで実際に救われている人も、多く存在するだろうからである。ただ同時に、「科学的・合理的」ということが魅力なのであれば、仏教の本など捨てて自然科学の本を読んだほうがよいだろうし、「処世の役に立つ」ことが目的ならば、二千五百年前のインド人が語った徳目などを参考にするよりは、現代社会の状況に即応した自己啓発本でも読んだほうが、ずっと「役に立つ」のではないかとも思う。要するに、そのような語り方を続けている限り、現代日本人の多くにとって、仏教は「現実の自分との関係が不明なもの」で、あり続けてしまうのではないかということである。

私の見方では、そのような宣伝よりもずっと大切なことは、ゴータマ・ブッダが(私たちにとって)「人間的」な教えなど説いていないということをはっきりと認めた上で、ならばそのように「非人間的」な実践の果てに得られる価値がいかなるものであるのかということを、問いの俎上に明示的に載せることである。仏教はゴータマ・ブッダがそれを求めて証得した(と宣言した)ことからはじまっている以上、まずはその点を押さえないと、彼の仏教の性質も、その後の仏教史の展開の意味も、わからなくなるからである。

「現代日本人にとっての仏教の意味は何か」ということも、その問いを通じてしか、探求し得ないのではないかと私は思う。「非人間的」な実践の果てに得られる価値の内実を知ってはじめて、(後の「大乗」の徒の一部がそれを目指したように)「人間的」な生を送りながら、同時にその価値とともにあろうとする試みも、可能となるだろうからである。


※今日のおまけ写真は、道端の木に作られた簡素な「仏壇」。ミャンマーではこういうものがそこかしこで見られます。

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