見出し画像

見えてもあまり嬉しくない

ミャンマーで出家された日本人僧侶の方とお会いした。この前とは別の人。『自由への旅』を読んで非常に役に立ったので、訳者の私と話したいと思ってくださったようだ。相変わらず、『自由への旅』は瞑想の実践者たちからは圧倒的な支持を受けている。これはやはり、早く紙で出すことも考える必要があるのかもしれない。

その方は日本でも大乗の僧侶をされていて、それも普通の檀家寺ではなくて祈願寺に居たのだという。安産や合格などを願う加持祈祷はもちろんやったが、そのほかに憑きもの落としなども、専門にされていたらしい。

「憑きもの」などと言うと、現代日本では縁のない人には全く縁のない世界だし、フィクションの話だとしか思えない人もいるだろうが、いわゆる「スピリチュアル」の世界では、まだまだ普通に現実存在していることである。

実際、「憑きもの落としなんて言うと、まるで『孔雀王』の世界ですね」と私が言ったら、彼は「いや、そのものですよ」と答えて、彼が実際に経験した様々な例を話してくれたが、どれも凄い話であった。彼自身は、最初はそうした現象に懐疑的であったのに、寺に来る人たちによって何度も現実にそれを経験させられてしまったので、信じざるを得なくなったらしい。

そのような現象は現代日本では公式には「ない」ことになっているから、それに悩まされている人たちは、どれほどありありと見聞していようが、必死に「ないんだ」と自分を洗脳するか、さもなければ薬で脳の状態を無理やり変えて、とにかく「なかったこと」にするしかない。祈願寺にやってくるのは、そのどちらも、選ぶことをしなかった/できなかった人たちである。

「現代日本では『ない』ことになっているものに、現実に悩まされるというのはつらいことでしょうね」と言ったら、その僧侶の方は、「本当にそうですよ」と、しみじみと言われていた。霊感系の漫画やアニメの主人公などは多くいるが、実際にはこのように苦労の多いことらしいので、ニー仏は零感人間で、本当によかったと思った次第である。



ここから先は

0字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?