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「本来」コンプレックスについて思うこと

小島毅『朱子学と陽明学』(ちくま学芸文庫)を読了。本書は「朱子学・陽明学がどのように形成され、どう変質していったかを歴史的視点に立って整理する作業を中心に据える」(p.24)ものなので、テクストに語られる思想の内容そのものよりも、むしろそれが受容されたコンテクストのほうに多くページが割かれているから、私にとってはたいへん面白い本だったが、初学者の方は、島田虔次による同名書『朱子学と陽明学』(岩波新書)などを先に読んでおいたほうが、理解が深まるかもしれない。

過去の思想を扱う際に、「本来の◯◯」という言葉を使って、その解釈者・実践者のあいだで論争が起こることがあるが、これは総じて不毛であることが多いなあと、端から見ている者としてはしばしば感じる。例えば「本来の仏教」とか、「本来の朱子学」とか言われる、(一般の人々はあまり関心をもたない)あの議論のことである。

もちろん、文献学などの学問的な関心にしたがって、「本来(彼らの文脈においては)これはいかなる思想として語られ、また実践されていたのか」と問うことには意味があるし、それはどんどんやればよい。ただ、現代日本人が自らの思索や実践の糧としてそれを摂取するという場合、大昔のインド人やら中国人やらの発言や行為をそのまま受け入れるわけにはもちろんいかないし、そもそも思想を伝えるメディアである言語からして異なっている以上、そこには必ず一定程度の「解釈」が入り込むことになる。つまり、現代日本人が「現代思想」として過去の思想を再び受容しようとする場合、それが「本来」のものと多少なりとも異なってくることは当然のことであり、また、そうなることが必要ともされているということ。

このように、過去の思想を再説・再受容する場合に、「本来」のそれとは一定の距離を保って語るということは、何らおかしなことでも恥ずかしいことでもないと思うのだが、多くの人々は、なぜか自分の言っていることが「本来の◯◯」だと主張したがる。学者の知的好奇心のためではなくて、現代日本社会に生きている一般の日本人の思索や実践に資するために語っているのだから、それが過去の外国人に対して語られた内容とは何ほどか差異を有するのは当然のことなのに、それを無理やり「本来の◯◯だ」などと主張するから、学者や意見の異なる他の実践者から、「それは違う」という批判を受けることになるのである。

誤解してほしくはないのだが、このように言うことで、私は「本来の○◯」を正確に把握しようとする努力自体を、蔑しているわけではない。既述のように、それ自体は、学術的な観点からすれば十分に価値のある営為である。

ただ、大昔の外国人に対して、その文脈に合わせて外国語で語られた思想というのは、当該分野の学問を専門としていない人にとっては、多くの場合、単なる「雑学」に過ぎないものであり、聞かされても「ああそうですか(so what?)」というだけのものである。

したがって、そのような過去の思想を「現代思想」として再説しようとする場合には、「本来の◯◯」を可能な限り正確に把握する努力をした上で、それとは別の営みとして、それを現代日本人である私たちにとっても興味深く有用な形で語り直す努力をしなければならない。その結果として表現される思想は、「本来の◯◯」とは何ほどかの差異を有するものであるが、それは当然のことであり、また必要なことでもある。私の言っているのは、そういうことである。

現代人のために過去の思想を語り直す場合、それは「本来の◯◯」とは必然的に差異を有することになるのだから、問題は、それを語る人がオリジナルから何を捨て、何を引き継いだか。即ち、「本来の○◯」をいかに修正し、再解釈したかである。

ところが、そのことが明示されずに、「自分の語る思想こそが本来の◯◯だ」という主張をしてしまうと、問題はそれが本当に「本来の◯◯」であるかというところに帰着してしまい、そこで不毛な論争がはじまってしまうことになる。過去の思想を「現代思想」として再説する場合に大切なことは、それが現代日本人である私たちにとって興味深く有用であるかどうかなのに、それを正面から検討することが回避されて、それが「本来」であるかないかという、一般人にとってはどうでもいい問題のために、膨大な言葉が費やされることになるわけだ。

こうした事態が生じるにあたっては、自分の思想をやたらに「本来の◯◯」だと主張したがる実践者たちと、現代日本人に向けて語られている思想に対して、やたらと「それは本来の◯◯ではない」と突っ込みを入れたがる専門家たちの、双方に責任があると思う。彼らに共通しているのは、現代日本人に対しては、そのままではさほどに大きな価値を持ち得ないはずの「本来の◯◯」に対して、(私には原因のよくわからない)熱烈な信仰心を抱いていることである。

要するに、私の言いたいのは、どうせそのまま受け入れることなどできない「本来の○◯」を基準にして、それと「同じ」かどうかで現代思想の価値を判定する不毛な行為は、そろそろやめたらどうですか、ということである。過去の思想を現代人に向けて再説する場合、前者と後者のあいだに距離ができるのは当然でありまた必要なことでもあるのだから、問題はその距離のとり方が私たちにとって興味深く有用な形で為されているかどうかなのであって、そこを正面から検討するために言葉を使用したほうが、一般の人々にとっては、ずっと有益な議論になるだろう。
(もちろん、それを行うためには「本来の◯◯」を可能な限り正確に把握しておくことが必要なのは当然で、それを価値中立的に(非難がましくない形で)提示する努力は決して否定されるものではない。というよりも、むしろ「本来」に関する余計なコンプレックスを捨てたほうが、当時の文脈をそのものとして理解し提示する営みも、ずっとやりやすくなるのではないかと私は思う。この点については、以前のエントリも参照のこと。)


例えば、現代のアメリカ人が仏教を受け容れている仕方はそうしたもので、だから今のアメリカは、発祥地であるアジアを差し置いて、まさに「現代仏教のフロンティア」と呼ぶにふさわしい状況になっている。これは彼らが、伝統的な仏教国民ではないゆえに、仏教を自分たちにとっての有用性の観点から純粋に評価していて、「本来の仏教」に対する余計なコンプレックスを抱いていないからである。

もちろん、伝統を背負っている立場の人たちからしてみれば、そう簡単にはいかない事情も色々とあるだろう。ただ、確実に言えることは、「本来」を追究する努力と、それを「現代思想」として再説する努力は、基本的に別の種類に属する両立可能な行為であり、そのあいだに価値的な優劣を持ち込もうとすることは、結果として不毛な論争を引き起こすということである。

両者が互いを蔑することなく、相互に啓発し合えるような言説空間が日本に形成されることを、私は切望している。


※今日のおまけ写真は、揚げ物売りの少女。このように路上で物を売る人たちは、ミャンマー国内のどこにでもいます。

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