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グルーミングがにゃんともホテップ

 これはちょっと恥ずかしい話なのだが、生まれつきの性質に関することなので是非の問題ではなく事実の記述として書いておくと、私は「ただ他人と会話をするということが、それ自体として楽しいとか癒やしになるという感覚」が、どうもよくわからない。もちろん、他者との会話がとにかく嫌だという話ではなくて、「内容の如何はとりあえず措くとして、人と話をすることはそれ自体として基本的には楽しいし、癒やされることでしょう」という(わりと多くの人たちにはあるように見える)感覚が、私にはどうもないらしいということである。

 たとえば、いわゆる「キャバクラ」という場所では、酒を飲みながら知らない女性と話して金を取られると聞いているが、こういうのは(別にやせ我慢をしているとかではなくて)本当に心から何が楽しいのか理解できない。私としては、そんなことをさせられるくらいならむしろ時給を払ってほしいくらいなのだが、世の中には金を払ってでもそれをしたい人たちが一定数は存在する(だからそういう店が成立している)わけで、まことに人間というのは多様なものだなあといつも思う。

 ただしもちろん、繰り返すが会話することそのものがとにかく嫌だというわけではない。「他人と話すこと」は、それ自体としては私にとって価値的に中立なことだから、相手が好きな人であったり、内容が面白かったり勉強になったりすることであれば、もちろん他者と会話することは実に楽しい。それは、私のコラボキャスなどをお聴きいただいたことのある方には、おそらく伝わっているのではないかと思う。だから、ゲストとしてお話しいただいている方々にはいつも感謝しているし、終わった後には疲労感はあまりなくて、むしろ一種の「癒やし」を感じるというか、エネルギーをもらったような気になることが大半だ。

 このように書くと、「相手と内容によって会話が楽しいかどうかが変わるというのは誰でもそうだろう」と言われるかもしれないし、実際ある程度はそのとおりだろうと私も思う。ただ、私の観察したところでは、世の中には(相手の問題はさておくとしても)「たとえ会話に中身がなくても、人と話をすることは、それ自体としてまずは楽しいことである」と感じている人たちが(冒頭にも述べたように)わりと多く存在しているようにも思われる。

 おそらく私には、いわゆる「グルーミング」としての会話を、それ自体として欲求し、またそれを楽しむという機能が、先天的にインストールされていないんじゃないかという気がしている。

 そのこと自体は、冒頭にも述べたように「そういうふうに生まれてしまった」という事実の話なのであって、是非の問題として考えても仕方のないことなのだけど、改めてこのように記述してみると、なにやら他の人たちには普通に開かれている楽しみへの道が、私には閉ざされてしまっているような感じもあって、にゃんともホテップなお気持ちになってしまうのであった。

(※以下は、購読者向けの深煎りコメント)

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