見出し画像

キラキラした槁木死灰

ここ数日、久しぶりにツイッターに連投してみて感じたことだけど、これは長文を書くブログの更新を続けるのとは、(私にとっては)相性が悪い。勉強して、この note を書いてからツイッターを眺めても、頭が一つのことを集中して考えるモードになっているから、瞬発力で短文を投稿するツイッターの速度にはしばらくついていけない状態になっているし、逆にツイッターでしばらく呟いて、それから note の長文を書こうとすると、頭が断片的な思考を次々と継起させるモードになっていて、まとまったことを考えるにはまた一定の時間を必要としてしまうことになる。

これはやはり、アウトプットは note &放送か、ツイッター&放送かの、どちらかにしぼったほうがよいかもしれない。


「生きる虚しさ」とか「人生の意味」であるとか、そういった問題をあまり考えなくなって久しくなった。そうした問いが、私にとって主題的であった時期は確実にあったのだけど、いまはそのような「生死の問題」は、私の中で一定の解決がついていると思う。

こうなったのは、ミャンマーで一定の期間、徹底的に瞑想をした結果であるのは明らかなのだけど、もちろんだからといって、私が「悟った」とか「解脱した」というわけではない。ただ、自分がミャンマーに来る前に「どうしてもわかりたい」と思っていたことについてはわかったから、それは本当によかったと思っている。


ただ、そのように自分のモードが変わったとしても、それを語る自分のナラティブまで変化させすぎてしまわないようには、注意したいと思っている。

昔から、私は「悟った人」や、あるいはいわゆる「スピリチュアル系」の人たちの語りが苦手だった。「苦手」というのは、嫌いだったというよりも、あまりに自分の感覚や現状とかけ離れすぎていて、どうしていいのかわからなかったということである。

例えば、これはすごく「良い例」として挙げるけれども、私の愛読書の中に、『盤珪禅師語録』というのがある。本書の中で盤珪禅師が語っていることは、「皆親のうみ附てたもつたものは佛心ひとつで御座る。佛心は不生にして靈明なものでござつて、不生で一切事がとゝのいまするわいの」というただ一事に尽きているのだが、これはその種の言説に対して向けられがちな嘲笑など軽く跳ね返す、銀山鉄壁のごとき堅固な真実性を、いまでも確実に保っていると私は思う。

ただ同時に、これを現代日本人に向けてそのまま言葉を変えずに語ったとしても、多くの人には、さほどに説得力をもち得ないであろうなあとも思う。本書が岩波文庫で一度は復刊されながら、再び絶版になってしまったという事実が、そのことを端的に示しているだろう。


まあ盤珪禅師は私も好きだし、上述のとおり「良い例」であるとしても、例えば「スピリチュアル系」の人たちなどには、もう少し軽いノリで神仏に対する感謝や「生きる歓び」を語る方々がたくさんいるし(そちらの例は、挙げない)、そういう人たちには、私はずっと「苦手」な感じをもち続けていた。輝いた瞳で感謝や歓喜を語られても、それがこちらの生のリアリティと全く接地していなければ、そうしたキラキラした言説も、私にとっては「槁木死灰(枯れ木と冷えた灰)」と変わらないものであるからである。

この「苦手」な感覚は、いまでも私の中で持続しているし、おそらくはそれと大いに関係している、一般の「宗教」に対する忌避感にも、ある程度は共感できるところがある。

私自身は、「宗教」や「スピリチュアル」との一定の関係をもっている人間だし、その価値も一般の人よりは認めているつもりだけど、「そちら側に行ききってしまった人」が、そうでない人に与える奇異な感じは、やはり忘れないでおきたいと思う。それを忘れてしまった時には、たぶん私の語ることも、一般の人には「キラキラした槁木死灰」として、「自分とは関係のないもの」に、分類されてしまうことになるだろうからである。


※今日のおまけ写真は、お布施を受けるために列を作る僧侶たち。こちらは暑いので、僧侶たちも普通に日傘をさします。

ここから先は

0字 / 1画像

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?