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「ありのまま」フレームワーク

在留邦人の方々と食事。皆さん90年代からミャンマーに関わってこられた、古株の人たちである。「民主化」以前のミャンマーには、邦人が来ることもほとんどなかったから、そのころからミャンマーに関わっている人たちは、このようにたいてい知り合いであるらしい。「ミャンマー関係の日本人」で一つの小さな村があったようなものだそうな。

もちろん、現在のミャンマーは「アジア最後のフロンティア」などと言われて、ビジネスマンなどが次々と日本からもやって来ているから、「いまはそんなこと全くありませんけどね。知らない人ばかりです」と、その邦人の方は言われていた。


昨日のツイート内容に、ちょっと補足。「(ゴータマ・ブッダの)仏教は世俗的な意味では何の役にも立たない」というのはツイートしたとおりだが、だからといって、それが本来の目的である苦しみからの解脱にすら役立たたないとまで考えてしまうのは、ちょっと行き過ぎだと私は思う。

言うまでもないことだけど、ゴータマ・ブッダの仏教の目的は、苦の現状からの解脱である。「苦(dukkha)」というのは、生・老・病・死をはじめとして、「好きな人と別れなければならない(愛別離苦)」、「憎い者と会わねばならない(怨憎会苦)」、「求めたものが得られない(求不得苦)」といった非常に具体的なものであり、そういう具体的な苦にさらされる凡夫にとって、生きることはそれ自体として苦である(五陰盛苦)というのが、ゴータマ・ブッダの言ったことだ。

そして、そのような苦には渇愛という原因があり、その渇愛を滅尽することで、苦も滅尽させることが実際に可能である、と宣言したのが、そもそもの仏教のはじまりなので、それを日本人好みの「ありのまま」フレームワークで解釈して、苦の現状とそこからの解脱(救済)という基本的な区別ないし遷移についてさえ、「そんなものはなかった。全てはありのままでよい」と言ってしまうのは、少なくともゴータマ・ブッダの仏教の解釈としては、正しくないと私は思う。
(もちろん、あらゆる仏教の解釈が、ゴータマ・ブッダの態度と正確に相応していなければならないというわけでは全くない)

ただ、これも繰り返し述べているとおり、その解脱・救済というのは、徹頭徹尾「ありのまま」を観じきること、そして、「空・無相・無願」が「三解脱門」と言われるとおり、「解脱や救済すら願わなくなること」によってもたらされるものであることも、またたしかなことである。先日の記事で述べたとおり、「習禅」をいくらやっても、それはゴータマ・ブッダの「坐禅」にはならないというのは、そういうことだ。


このあたりの話は非常に錯綜したもので、レイヤーを分けながら丁寧に考えていかないと、実際のところはわかりにくい。ただ、その錯綜を単に実践の文脈に丸投げしてしまう(つまり、「そんなこと考えても意味はないので、黙って修行しろ」と、言語化の努力を怠る)のも、単なる「業界」の中での自慰的な満足しかもたらさない行為なので、そこはぼちぼちと精進を重ねていかねばならないと思う。


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