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同じことでも何度も言う

私がミャンマーでどうしてもやらなければならないと思っていたことは二つあって、一つは『自由への旅』の翻訳であり、もう一つは『仏教思想のゼロポイント』の執筆であった。後者はまだ原稿ができただけなので出版できるまで安心できないが、とりあえず作業は一段落したのでほっとしている。

前者の『自由への旅』の翻訳のほうは、一年以上前に終わっているのだが、いまのところ三千以上のダウンロードがあって、無料公開ゆえの気軽さはあるとはいえ、それなりの数の人の手元に届いたようで、それはよかったなあと思っている。

ただ、公開してみてわかったのだが、『自由への旅』は人によって評価が分かれるというか、読者に瞑想の経験があるかどうかで全く理解度の変わる本のようで、自分である程度やってきた人たちからは一様に評判がよいのだが、瞑想の実践を全くしたことのない人たちからは、「最後まで読めなかった」とか、「何を言っているのかよくわからなかった」等の感想をしばしばもらった。

これは私の普段の文章や放送を楽しんでくれている人でも同じで、私としては、自分のアウトプットしていることは『自由への旅』に負っているところが非常に大きいと思っているので、ニー仏を面白いと思ってくれる人なら、『自由への旅』も絶対に面白いと感じてくれるはずだと考えていたのだが、それが実際にはそうでもなかったのは、少々意外なことであった。


これはいつも私自身が言っていることだが、結局のところ、思想というのは時代や地域や聴く人たちの文脈に合わせて、何度でも語り直さなければならないのだろうと思う。『自由への旅』の言っていることが一般の日本人に通じにくいのは、それが実践者向けのウィパッサナー瞑想の講義だからだし、それが瞑想経験のとくにない普通の日本人に伝わるためには、彼らの文脈に合わせて、同じことでも新しい言葉で語り直される必要があるわけだ。

この作業を行う基礎になる「理論編」の叙述は『仏教思想のゼロポイント』において行ったので、次はそれをもう少し噛み砕いて、「基礎編」ないしは「普及編」の作成を考えなければならないのかもしれない。もちろん、そのためにはアウトプットだけではなくてインプットをたっぷりしておかなくてはならないので、やはり精進、精進の日々である。



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