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私たちには選べない

久しぶりに山下良道先生ポッドキャスト法話を聞いた。先生の法話にはしばらく接していなかったのだけど、以前よりも、さらにお話が上手になられたように思う。とくにこれなどは非常によかった。「マインドフルネス」とは何であって、それがなぜ私たちにとって必要なのか、という筋道を、わかりやすい言葉で丁寧に解き明かされていて、これなら多くの人が、瞑想の意義について、深く納得することができただろう。

その法話の中で、山下先生は「一週間前に職場で言われた屈辱的な言葉」の例を挙げている。私たちは、それを「屈辱的」だと考えるから、それから一週間のあいだ、ずっとその人と言葉のことを、頭の中で何回もリピートする。ひょっとしたら、二百回くらいはそうしてしまうかもしれない。

そこで私たちは、私たちをそのような苦しい状態に陥らせた原因となっているのは、当然、そのような言葉を発した人だと考えるわけだが、それはそれで正しいとしても、たぶんそれだけが原因というわけでは決してない。

その人が私にそのような言葉を発したのは一回だけの出来事なのに、それを二百回リピートして、二百回ぶんの苦しみを作っているのは何かと言えば、それはもちろん、私たちの心である。

だから、私たちのまずすべきことは、その人を訴えたり土下座させたりすることよりも、とにかくそのように余計な苦しみを生み出してしまう心の癖を対治することだ。そして、そのために有効なのが、マインドフルネスの瞑想である。山下先生は、このように話を進められる。

この主張は本当に正しくて、だからこそマインドフルネス(気づき)の態度を身につけるために、私たちが努力をする意味もあるわけだが、そこに少々の疑問の余地が残らないわけでもない。たしかに、瞑想等の実践によって、屈辱的な言葉を気にしない態度が身についたとしても、私に屈辱的な言葉をかけてくるような他者が職場に存在し続けているという事実は、そのまま残されているからである。

山下先生は、他に「お金がない」という不安や、「糖尿病で血糖値が下がらない」という不安の例も挙げられているが、これについても同じことで、マインドフルネスの態度が身につくことによって、「お金がない」とか「血糖値が下がらない」ということで余計な不安を抱かない心になったとしても、それで「お金がない」という事実や、「血糖値が高い」という事実が消滅するわけではない。生活費などの喫緊の課題が現実に迫ってくれば、それらはもちろん、瞑想とは別の形で、現実的な対応を要求する問題として、残存し続けることになる。

私がいつも言うことだが、瞑想とはこのように、「やれば現実が上手くいく」という性質のものではなくて、「やれば現実が上手くいこうがいくまいが気にならなくなる」という性質のものである。

もちろん、そのことの効果は計り知れない。「悩んでも仕方ないことで無駄に悩む」ことで、私たちの精神的健康や仕事の実質的な効率が、どれほど低下しているかということは、誰でも経験的に知っていることだからである。それをもしなくすことができたならば、「現実が上手くいく」助けにも、確実になるだろう。実際、瞑想が上手く進むことで、現実も上手くいくようになるということは、多くの瞑想者がしばしば経験していることだ。

ただ、瞑想というものの本来の意義は、上述のように「上手くいこうがいくまいが気にならない」という態度を養うことだから、それは現実が「上手くいく」ことの直接の原因には決してならないし、またそれを目標に実践したら、決して上手くいかない性質のものである。そのことは、以前の記事にも書いたとおりだ。

だからもちろん、瞑想が上手くいくことで現実も上手くいく「こともある」が、瞑想が上手くいっても現実は上手くいかない「こともある」。その象徴的な例としては、毎日瞑想をやっていて、一切衆生の幸福を願い続けていたはずのチベットの僧侶たちが、中国軍の侵略によって、一方的に虐殺されてしまったことを、思い起こしてみればよい。

ちなみに、ゴータマ・ブッダの仏教は、このあたりは非常に上手くできていて、彼の教説にしたがって解脱・涅槃を達成した者は、労働と生殖を放棄した、出家者としての生活に入ることが当然視されている。つまり、「上手くいこうがいくまいが気にならない」態度を完璧に身につけた者は、現実の自分の生活も、「上手くいこうがいくまいが支障がない」状態にしてしまうことが、当然視されているわけだ。労働も生殖も放棄して乞食で生活しているだけなのだから、ある日とつぜん死ななければならないことになったとしても、その時は、ただ死ねばよいだけなのである。

とはいえ、もちろん私たち一般の日本人は、なかなか簡単に労働と生殖を放棄した生活に移行するわけにもいかないから、「上手くいこうがいくまいが気にならない」態度を養成するだけでは話は済まなくて、それと同時に、「現実で上手くいく」ための方法も、ともに追求せざるを得ないということになる。前者は後者を追求するための基礎にはなるが、前者が達成できたからといって、後者が自動的に実現するということには決してならない。それがここでの大切なことだ。

このように言うことで、「マインドフルネス」の態度や、それを実現するための瞑想実践を、批判しようとしているわけではもちろんない。世界に陰陽がともに必要であるように、「上手くいこうがいくまいが気にならない」態度も、「現実で上手くいく」ための具体的方策を追求する態度も、人間の生の全体的な幸福を実現するためには、ともに必要なものであると私は思う。

ただ、「マインドフルネス」の態度が、それを身につけることによってどのような結果をもたらすのかということと、その限界は何であるかということは、その実践を行う者にとっては、やはり知っておくべきことであろうとも私は思う。瞑想は素晴らしいものだが、それで人生の問題が全て解決されるような「完パケ」ではない。そのことを理解した上で実践をはじめないと、おそらくは多くの人が、失望を感じることになるだろうからである。



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