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「時のなりあひ」と「現実教」

 昨日一昨日のエントリの「トーン」の違いを改めて見ると、やはり私にとって最も関心のあるところというのは、「彼岸と此岸のあいだ」や「絶対と相対のあわい」、あるいは敢えて仏教用語を使って言い換えるなら、「心真如門と心生滅門の汽水域」とでも表現しておくべき領域なのであろうと思う。

 某先生が鈴木大拙や清沢満之といった近代日本の仏教者たちの思想について、「彼らにとっては絶対無分別の宗教的世界と相対分別の現実的世界がぴったりとコインの裏表のように一体となっていて、しばしば前者のヴィジョンが後者へと、無媒介なまま直接的に適用されてしまう。だが、無分別の風光が分別の多様の中でそのままに活かせるはずもなく、ゆえに結果としてはたとえば無限責任から無責任へといったような、単なる現実のベタ塗り肯定と異ならないところに行き着くしかなくなってしまったのではないか」といったようなことを言われていたが、これは現代日本の仏教や瞑想の実践者たちの一部にも、全く無縁の事態では決してないのではなかろうか。

 私が尊敬する中国哲学者の一人に(つい先年亡くなられた)荒木見悟先生という方がいらっしゃるのだけど、その荒木先生が『仏教と陽明学』というコンパクトな名著で、盤珪などの日本の禅者を厳しく批判している箇所がある。本書は残念ながら現在は入手困難なようだから、少々長くなるが、以下に該当の部分を必要な範囲で引いておこう。

 つまり盤珪は、善悪を超えて動き働く活仏心を、「善もいや悪もいや」と表現し、縁に随い運に任せて、自由自在に動き、「悪き事はなさず、善き事はなす」のを、「事々物々は、時のなりあひ」と詠じたのである。悪に流されるのはもちろん不都合だが、善ぼこりはもっとみにくい。だから善悪の彼岸に超出せよ、それでこそ心眼が開けたというもの。これが盤珪の示教である。この心眼を、盤珪のように不生でとらえるか、白隠のように公案でとらえるか、或いは道元のように只管打坐でとらえるか、行き方はさまざまであろうが、どうやら日本の禅者の、悟りと善悪の関係にかかわる議論は、究極的には、この範囲を出まい。こうした主張は、いかにも善悪のしがらみから超越した自由人のイメージを喚起するし、事実禅僧は、これをたてにとって、世俗的な善悪論争の埒外にいるとうそぶいても来たのである。だが一体、善悪を超出しつつ、「時のなりあひ」として、「悪き事はなさず、善き事はなす」というのは、どういう生きざまなのであろうか。そこでいわれる「善き事」「悪き事」とは、どのような判別基準にもとづくのであろうか。そこには一応、「活仏心の動くままに判別するだけだ」という返答が用意されているであろうが、俗世のしくみや動向を追求するための、かくべつの方法論も用意しないで、単なる直感だのみによる善悪判別が、実生活にどれほどの威力をもち得るであろうか。(pp.180-181)

(……)盤珪の示教を通して、われわれが感知するのは、これはいかにも幕藩体制下にどっしりと腰をすえた者の悟りであり、接化であるということである。腹立ちがどうの、悲しみがどうの、妄念がどうのという、個人的迷妄打破には、たしかに不生禅はすばらしい威力を発揮するであろうが、収奪にあえぐ農民の腹立ち、重税に苦しむ商人の悲しみ、不当な身分差別に挫折するものの無念を、その社会構造のありように則して解決する道を、不生禅は示しはしない。それどころか、それらの苦しみ・悲しみ・無念を、不生の仏心で「時のなりあひ」よろしく片づけるなら、かえって歴史の動態を無視することになろう。これこそは、無作為をよそおう作為、活潑をよそおう遅鈍というものである。(p.183)

※引用はともに『仏教と陽明学』より。文中の傍点は省略。

 荒木先生による上記の行文が自身の身に迫る弾劾として感じられるのは、おそらく坐禅や瞑想を、己の実存を賭けた実践として、一定期間は続けてきた経験を有する人たちだろう。そして、そのうちの何割かの方々は、「私たちはまさに腹立ちがどうの悲しみがどうのという、『個人的迷妄打破』のために実践をやってきたのであって、社会問題をそれで解決しようなどというつもりはさらさらない。だから、そんなことで責められるのは、はっきり言ってお門違いだ」と感じるだろう。もちろん、それはそれでよい。

 ただ、私個人にとっては荒木先生によるこうした過去の禅者たちに対する手厳しい批判の言葉は、(とりわけ日本における)仏教や瞑想実践のあり方について自身が抱懐していた問題意識とぴったり重なるところがあり、大昔にこれを読んで以来、ずっと心に懸け続けていた。『悟らなくたって、いいじゃないか』『感じて、ゆるす仏教』では、(これらは「応用的」な内容を扱った書籍だから)とくにそうした意識が強く前面に出ていたと思う。

 こういう問題の語り方が難しいのは、下手に一般論として荒木先生がされているような指摘を行ってしまうと、現代日本においてその言葉は、「ほらね! だから瞑想なんかやって社会から目を背けている場合じゃなくて、きちんと現実を直視しなくちゃいけないんだよ!」といった、いつもの「現実教」の文脈に、容易に回収されてしまいがちだからである。こちらのnoteを定期的に読んでくださっている方々には言うまでもないことだと思うが、私が語りたいのは、もちろんそんなことではない。

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