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変えられないスタンダード
仏教をやっていて、その思想や倫理を称揚している人たちが、生活上の必要に迫られた時に豹変するというか、それまで口にしていたスタンダードを、いきなり変更することがあって、そういう事態を目にすると、いつもちょっとどきどきしてしまう。
もちろん、場合によって複数のスタンダードを使い分けるのは人間が社会で生きていく上で不可欠のことなのだろうが、それまでにその人自身が仏教のことを「万能薬」のように語っていることもしばしばあるから、その効能が限定的であることを本人の振る舞いによって見せつけられると、やはりどうも、もにょってしまう感じは否めないのである。
それは喩えて言えば、「ボクシングは最強の格闘技だ」と言っている人が、ノールールの喧嘩になった途端に、「やっぱり蹴り技や投げ技も必要だ」と言い出してバックドロップを繰り出すようなもので、もちろんそれはそれでいいのだが、「だったらボクシングが最強だなんて言わなきゃいいのに」と思うのも、やはり実際のところなのである。
こういうダブスタ(もしくは、トリプル以上のスタンダード)の問題は、ツイッターなどでもしばしば話題になることがあって、「生きていく上でダブスタが避けられないのは当然だから、そこは開き直るしかない」と主張する人も中にはいるが、私にはちょっとそれはわからない。
「これが私の物事を判断する上でのスタンダードだ」ということを明示した上で、それでもそれを破らなければならない事態が生ずるのであれば、それはやはり当該のスタンダードが不完全だったということを意味するのであって、ゆえにその場合において必要なのは開き直ることではなくて、そのスタンダードの修正、もしくはそれが適用できる事象の限定ではないかと思うからである。
仏教の場合でもそれは同じことで、そのスタンダードを人生の全ての場面において適用するのが不可能であって、場合によっては別のスタンダードを採用することが避けられないというのであれば、それはそれで構わない。
ただ、そうであれば、仏教があたかも「万能薬」であるかのような言説を語ることは、やめておいたほうがいいだろうとは思う。どうせ喧嘩になったら蹴ったり投げたりするのであれば、「ボクシングが最強」なんてことは、言わなければいいということだ。
もちろん、仏教も宗教である以上、それを信奉する人の立場からすれば、それが現実に合わないからといって、元の教えを修正することなんてとてもできないというのは理解できる。私が仏教に深く共感するところがありながらも、「仏教徒」だと名乗ることはしないのは、そのようにスタンダード自体に問題があった時に、そこから目を背けざるを得ないのは、やはり不自由なことであると、感じてしまうからだと思う。
※今日のおまけ写真は、得度式に臨む男の子たち。ミャンマーの王朝時代の衣装で着飾ってます。
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