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「資格」としての関西人

中国地方出身の知人がいるのだが、彼は関西弁が好きだったので、東京の大学に進学した際にはそれを喋っていた。自然な関西弁だったので、東京の人たちはもちろん、関西出身の人たちにも受け入れられていたのだが、ある時その「関西人」の一人に中国地方出身であることを知られることになった。すると、その瞬間に、それまで彼の関西弁を受け入れていたその「関西人」は、彼が関西弁を使うことを批判しはじめたのだという。

この話を聞いた時、「ああ、いかにもありそうなことだな」と思ってしまった。ツイッターなどでも、「関西人」とか「関西弁」というのは、何か特定の気質や性質のことを表現しているのではなくて、あくまで「資格」のことなのだと、思わされることが多かったからである。

例えば、ある「関西人」の人から、「関西」の性質について知識を得て、それをツイッターに書くとする。すると、必ず別の「関西人」から、「そんなのはウソだ!」という指摘をもらうことになる。

もちろん、そこで私は、「いえいえ、これは『関西人』の方が言われていたのですよ」と指摘を返す。そうすると、そこではじめて相手は沈黙するのである。具体例を言えば、「関西ではUSJのことを『ユニバ』と言うらしい」というツイートをしたら、直ちに「そんな略し方しねーよ」という「関西人」からのリプを頂いた。だが、これはもちろん「関西人」ソースのツイートだし、「関西人」のアカウントから賛同のツイートももらっていたので、そのことを指摘すると、相手は何やらゴニョゴニョ言って去っていった。こういうことは、本当にしょっちゅうある。

これはどういうことかというと、つまり、「関西人」ではない(=「関西資格」を有していない)私が、「関西」について何かを言った場合、それを「関西人」は自己の経験や独断に基いて一方的に否定することが許される。だが、それに対して別の「関西人」(=「関西資格」を有するもの)が一人でも私の言うことを肯定したならば、その瞬間に、最初の反論は無効になるということである。要するに、「関西」に関する言説で問題となるのは、「関西」に存在する事実ではなくて、発言者が「関西人」として、「関西資格」を有しているかどうかであるということだ。

これは「関西弁」に関しても同じことが言えて、最初に挙げた例は、「関西弁」が、ある特定の喋り方というよりも、むしろ発話者の「資格」に依存した概念であることを端的に示している。あるいはアニメの声優に関するネットの議論などでも、「◯◯の関西弁はおかしい」といったような批判に対して、「◯◯は関西出身だよ」と指摘が出て、その瞬間に批判がやむといった事例はよく見かける。つまり、「関西弁」はそれ自体として多様性を含むものだから、ある特定の喋り方が「関西弁」であるかどうかを決定するのは、その文法や発音によるというよりも、むしろ発話者が「関西人」であるかどうかによるということである。これはまさに、「資格」の問題であろう。

誤解してほしくはないのだが、私はこのような「関西」の性質が、「悪い」と言いたいわけではない。地域性というのは、多かれ少なかれそういうものだと思うからである。

ただ「関西」の場合には、それについて発言する者に「資格」が要求される度合が、他の地域の場合よりもずっと大きいような感じはしている。まあ、それも含めて「関西」の特徴だと考えるべきなのだろう。


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