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「なぜ個人の心の問題だけに専念しないのか」が含む二重の誤解

 昨日のエントリのようなことを書くと、「そのように瞑想的な『現実』感覚をもっているはずのニー仏が、なぜ世俗の社会や制度のことなどに関心をもつのか。そういう人は、もっと個人の心の問題のことだけを考えるものではないのか」といった感想を述べられることも昔は少なくなかった。もちろん、私自身はそうした考え方はとっておらず、むしろ仏教だの瞑想だのをやってきた人たちの関心が、現代日本においてはしばしば「個人の心の問題」のことだけに収斂しがちであるということのほうが、個人的にはたいへん不思議に感じられるということについては、下掲の過去エントリにも少しばかりふれてある。

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