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自由や多様はウザいもの

宗教について、「別に信じるのは勝手だけど布教や勧誘はやめろ」という主張を聞くことがしばしばあるが、たしかに気持ちはわかるけれども、理路としては、必ずしも正しくないのではないかと個人的には思う。

私自身は、とくに一定の制度宗教の信者や信徒であるわけではないし、だからどれかの宗教ないしは宗教一般の肩をもたねばならない立場ではないのだけれども(仏教については、たまたまミャンマーで自分が勉強をしているので、ふれる機会が多くなるだけである)、宗教に関する自由には布教の自由も含まれている以上、「自分にとって不快だからそれもやめろ」という主張には、やはり賛同することを躊躇する。

このことは、以前にも別の場所で書いたことがあるが、そこのコメント欄を見ていただければわかるように、このような主張をすると、かなり感情的な反応を受けることが多い。

私が言っているのは、「宗教に関する自由には布教の自由が含まれているし、布教されるほうには、当然それを断る自由がある。断ったにも関わらずしつこく付きまとわれたり、嫌がらせをされるようであれば、それは法律に則って対処をすべきことであって、『だからそもそも布教をやめろ』とまで主張するのは、宗教者の自由を侵害することになり、そこで『押しつけ』を行っているのは、むしろそのような主張をする人のほうになる」ということなのだが、彼らからすると、「押しつけ」の罪は一方的に宗教者のほうにあるのであって、自分たちのほうには全くないから、何が悪いのか理解できない、ということであるようだ。

このことは、当該記事にコメントを連投された方が自ら示してくれていて、私としては、一貫して「いまあなたがおやりになっていることが、まさに自分の主張の『布教』なのであり、私はその自由を尊重しつつ、自分はそれに同意しないということを言っているのですが、それをどうしても受け入れられないあなた自身の振る舞いは、ひょっとしたらすごく『宗教的』なのではありませんか?」ということを(婉曲に)伝えていたのだが、その方には、なかなかわかっていただけなかったようだ。

こうした、「俺は俺の考える押しつけ行為をしていない。だからお前も俺の考える押しつけ行為はやめるべきだ」という物言いは、日本社会では一般によく使われる他者への説得(より明確に言えば、「押しつけ」)方法だが、もちろんそれ自体は日本人の好みであるので善し悪しを言っても仕方のないことであるにしても、それが「自由な社会」の当然のあり方だと言われると、やはり少々戸惑ってしまう感じはする。

上掲のエントリにも書いたことだが、「多様性」のある社会において、その成員がそれぞれ「自由」に振る舞ったとしたら、そこに一定のコンフリクトが生ずることはむしろ当然で、だからといって「俺が不快だと感じる行為をお前はやめるべきだ」と互いに要求しあうことが過度になれば、その行き着く先は、社会の成員の各々が己の自由を自主規制する、「不自由」な社会になるしかない。

もちろん、ここでのポイントは、「要求しあうことが過度になれば」というところで、言うまでもないことだが、「自由」を相互承認するといっても、殺人嗜好の人間が他者を殺害することまで容認するわけにはいかない。そのように、他者の「自由」を一方的に侵害する行為が法律によって規制されるのは当然のことである。私が言っているのは、例えば、相手に断る自由を担保した上で宗教者が布教をする行為まで抑圧すべきだと考えるのであれば、それは「過度」な要求であり、「自由の自主規制」に繋がる行為ではないかということだ。

「自由」というのは議論の余地なく「いいこと」だと考えられているし、それは人間の幸福の基本的な条件であるともされている。私はその考え方に決して反対はしないが、ただ、「多様」な社会において、その成員がそれぞれ「自由」であることは、一般に考えられているよりも、ずっと不快なことではあると思う。

「不快」であるということは、上のリンク先で述べたように、言い換えれば「ウザい」ということだ。自分の信じていない教えを語られることは「ウザい」ことだし、家の近所で自分とは全く生活習慣の異なった人々が暮らしていることは「ウザい」ことである。だが、そこで彼らに対して「ウザいからやめろ」と簡単に要求してしまうならば、社会から「自由」も「多様」も、失われてしまうだろう。

もちろん、繰り返すが、これはあくまで「程度問題」であって、他者の「自由」な振る舞いによって生ずる己の不快を、全て受忍しなければならないということではない。誰にでも自分の好む振る舞いを試みる「自由」はあるし、それに接する他者には、その行為を「不快」だと主張する「自由」がある。そうすると、そこには当然、個人間のコンフリクトが生じることになるが、それは「自由で多様な社会」には避けられないことであるし、もしそのような社会を維持したいと望むのであれば、自分にとって不快な(ウザい)振る舞いを、個人間のコンフリクトにはしたくないがゆえに、社会の全体として規制しようとすることには、可能な限り慎重であったほうがよいということである。

要するに、私の言いたかったのは、「自由で多様な社会というのは、個人間のコンフリクトが頻発する、けっこう不快でウザい社会ですよ」ということである。だから、「そのような社会は日本人の気質には合わないから、現状がそうであるように、社会の成員が互いに空気を読みあうことで、コンフリクトの発生を徹底的に避け、相互に不快感を最小化できるように、己の自由を自主規制する社会のほうがましである」と考える人も、当然存在するであろうと思う。

もちろん、それはそれで一つの思想的な立場ではあるから、日本においては多くの人々がそちらのほうを選好するというのであれば、それは仕方のないことである。ただ、その場合には、その選択が「自由」や「多様」よりも「不快感の極小化」を優先した結果として生じたのであり、そうした社会が維持される背景には、「互いに押しつけないこと」よりも、むしろ「自主規制の押しつけあい」が強く存在して作用しているということは、意識化しておいたほうがよいのではないかと思う。


※今日のおまけ写真は、部屋の近くでふらついてた猫。よく動くので、ピントを合わせるのが大変でしたw

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