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思いを身体に落とすこと

ちょっと前の作業で崩れた生活リズムが戻らずに四苦八苦。私の場合、語学や翻訳にエネルギーを注ぎ込むには規則正しい生活が必須なので、これは早くなんとかしなくてはいけない。


「何かをはじめる時には、まず身体から整えなくてはならない」というのは、私にとってほとんど信仰のようなもので、何か達成したいことがある時には、とりあえず「これができるような身体になるためには、どういう生活をしたらいいだろう?」ということを考えることからいつもはじめる。

そのようにして、まずは「それができる身体」をイメージして、次に「それが作れる生活」の計画を立て、その計画をとにかく実行する。「心構え」をなんとかしようとしても、心には形がないのでいじりようがないから、とりあえず身体のほうを適切な形に整えようとするわけである。


私にはわりとナイーヴなところがあって、イメージが物事を現実化する可能性を強く信じているほうなのだが、同時にイメージが「心構え」にとどまっていては駄目だとも思っていて、それを身体の具体的な振る舞いに落としこむ方法については、かなり真剣に考えるほうでもある。

このあたりは仏教に影響されたところもずいぶんあると思うが、そもそも仏教に興味をもったきっかけは、「身体の処し方は、そのまま人格そのものとして『身について』しまう」という、私自身の経験的な理解であるような気もするのでいちがいには言えない。要するに、もともとなんとなく感じていたことを明示的に語ってくれているような思想を、やはり好きになってしまったということである。


とはいえ、私は基本的には抽象と観念の世界に住んでいる人間なので、思想から実践の理論的基盤を得てしまうと、それで安心して具体的な身体の統制を怠ってしまうこともしばしばある。

筋トレ・ジョギング・瞑想をさぼってしまうのは、私にとってそのように自分が身体を忘れつつあることのサインなので、ここは再び無心になって、淡々と日課をこなしていきたい。


※今日のおまけ写真は、寺院住職の話を聞く若い僧侶たち。テーラワーダの僧の世界でも、やはり上下関係はきっちりしてます。

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