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私のプラマーナ

光陰矢のごとしとはよく言ったもので、いつの間にやらもう七月。今年も半分が終わってしまった。学ぶべきこと、処理すべき作業は溜まっているから気は焦るが、一つ一つ片付けていくしかない。

『仏教思想のゼロポイント』を脱稿してからしばらく経っているが、やはり集中して作業した余波は私の中に残っていて、このところはツイッターでもnoteでも仏教の話ばかりをしてしまっているが、本当のところは、私は「仏教の」話をしたいわけではない。

いつも言っているように、仏教というのは私にとって、あくまでプラマーナ(インド哲学の用語で、「認識手段」ないしは「知識根拠」を意味する)の一つだから、実際には、仏教そのものよりも、それによって見えてくるもののほうが、私の本来の関心の対象だ。

『仏教思想のゼロポイント』を読んでもらった僧侶の方に、「あなたは仏教の実践によって得られる認知の拡大と、それによる世界観の変容を、あくまで一般的な問題として扱っていて、それに『仏教』という名前をつけることにこだわる必要はとくにない、という立場のようだけれども、実際には、そのような認識の変化は仏教特有のものなのだから、やはりそれは『仏教』の枠内の問題として考えるべきではないのか」と言われたのだが、私自身は、必ずしもそのようには考えていない。

そもそも『仏教思想のゼロポイント』という発想自体が、井筒俊彦の名著、『意識と本質』に示されている「意識のゼロ・ポイント」という概念に啓発されたものだし、同書で井筒は、その「意識のゼロ・ポイント」という人類の意識にとっての普遍的な境位が、主に東洋の諸宗教・諸文化において、いかに把握され展開したかということを、その該博な知識をもって明晰に解説している。

もちろん、ことは「東洋」だけの話ではない。「西洋」の哲学でも、例えばハイデガーの存在論や現代の現象学は、かなりいいところまでいっているように私には思えるし、また、そうした哲学における認識論と存在論の融合する領域が、自然科学(とくに認知科学)の知見とどのように整合するのかということも大きな問題だ。

当然のことながら、このような問題意識は現代思想の最大の関心領域とも深く関わってくることになるが、そんなふうに、仏教というプラマーナを通じて自分に見えてきたものが、他のプラマーナによって知られることとも関連づけられて、知識がどんどん有機化されていく過程が、私にとっての最大の楽しみなのである。

とはいえ、この楽しみを本当に享受するためには、実践にせよ学問にせよ、いまとは比較にならないレベルで、さらに深めていく必要があるわけだが、実際には中国語のピンインを思い出しているうちに一日が終わってしまったりもするので、そんな己の浅学非才ぶりには、日々嘆息するばかりである。

インプットだけではなくてアウトプットも私にとっては大切な営みなので、このnoteは今後も休まずに続けていくが、その時間を確保するためにも、もっと生活の密度を上げなくてはならないなあと、おそらくは千五百回目くらいの決意をした、ミャンマーの夕べであった。



※今月から、noteを購入してくださった方のために、記事におまけ写真をつけることにしました。今日はミャンマーの魚売りのおばちゃん。ヤンゴンの路地に入っていくと、まだまだこのような魚や野菜の露天商というか、「地面商」の人たちがたくさんいます。

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