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「わからせる」前に「わかる」こと

「わかる」というのは、なかなか難しいことだなあと改めて思う。自分自身が「わかる」というだけでも非常に複雑な事態なのに、それを他人にうながすこと、即ち、「わからせる」ということを目指すならば、それはなおさらたいへんなことだ。

例えば、プラトンの有名な対話篇『パイドン』に、刑死を前にして入牢しているソクラテスが、「自然哲学者たちは私が牢から出ない理由を、『ソクラテスの足の腱が云々』と言って説明する。だが、それは説明になっていないだろう」という趣旨のことを語っているシーンがある。

このことは、最初からそういう問題意識をもっている人にとっては当然のことで、わざわざ言うまでもないくらいだが、これがどうしても「わからない」人もいる。「足の腱や筋肉などの力学的・生理学的な記述をしっかりとすれば、それで彼が牢から出ない理由の『説明』としては十分ではないか」というわけだ。こうなってくると、単純な「わかる/わからない」の問題というよりも、むしろそれぞれの「世界観の衝突」の様相を呈してくるので、簡単に「説得」することもできなくなる。

こういうことは仏教の世界にもあって、いつも言うように、私は仏教のテキストを理解する際には、テキスト制作者の文脈に語学的・文献学的に近づいていくことも大事だが、同時に、身体的な実践を通じてテキスト解釈者の「世界」認知自体を、制作者のそれに近づけていく努力をすることも大切だと思っている。この両方のどちらが欠けても、「正しい解釈」を目指すことは、おそらく不可能になるであろう。

ところが、このように言うと、「当時の人々の文脈に沿ってテキストを読むということであれば、文献学でも言われていますよ」と、指摘を受けることがある。もちろん、私も文献学をやっていたのだから、そのことは知っている。例えばこの記事に書いた、「己を空しくしてテキストの語るところを聞くこと」が文献学の基本であるというのはそういうことだし、そもそも文献学という方法自体が、「私たちの文脈」ではなくして、「彼らの文脈」によってテキストを解釈するという一点のために、成立していると言ってもよいくらいだ。

ただ、私が言っているのは、そのように「己を空しく」してテキストを読む際に、その手段を語学的・文献学的方法だけに頼っていたら、言葉については「己を空しく」することができるとしても、そこに現代日本に生きる一般人としての認知バイアスは残ってしまうから、そこでテキスト制作者の認知に近づく試みは、躓いてしまうのではありませんか。近代仏教学が、その素晴らしい成果と同時に、例えば「ゴータマ・ブッダは輪廻を説かなかった」だとか、「彼は『よく考えて』悟った」だとか、そのようなトンデモ解釈を流布させることにもなってしまったのは、そうした語学的・文献学的な方法以外で己の認知を変容させること、あるいは己の無自覚な哲学的(場合によっては「宗教的」)な前提について検討することを、あまり考えずにきたからではありませんか、ということである。

喩えて言えば、私が主張しているのは、「自然科学はとても素晴らしい知の体系だけど、それは方法上の前提として、数と量のみを対象とすることによって、厳密化されているものですよね。例えば、『リンゴが赤い』という、その『赤さ』の感覚質(クオリア)そのものは、自然科学の対象には定義上なりにくい。しかし、私たちが実際に生きている『生活世界』そのものは、そうした感覚質に溢れた世界なのだから、それについて『も』私たちは考えないと、『現実』を理解するには足りませんよね」ということである。

これに対して、「そうしたことは文献学でも言われていますよ」と指摘されるのは、上の比喩に即して言えば、「色の差異というのは要するに光波長の差異だから、十分に自然科学の範囲内で扱えますよ」と指摘されるようなものであって、私からすれば、「いや、そういう話ではないということを、私はずっと申し上げているのです」ということになる。

ただ、これは最初に述べたように、単純な「わかる/わからない」の話であるというよりは、おそらく互いの「世界観の衝突」もたぶんに含まれている問題なので、「相手の理解力がないのだ」というふうに速断してしまうわけにはもちろんいかない。そこはゆっくりと時間をかけて、私の理解の地平のほうも、相手のそれのほうに向かって、広げていかなければならないのだろう。


※今日のおまけ写真は、洗濯中の女の子たち。頭にターバン的なものを巻いているので、「ビルマ族じゃないのか?」と訊いたら、「いや、単に仕事中だから」ですって(^_^;)

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