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時には楽しい「対話」のために

「ネット上の『議論』や『対話』にあまり意義を感じられない(あるいは、様々な経験を通じて感じられなくなった)」という話をしている人たちを見かけて、「たしかに気持ちはわかるなあ」と頷くなどした。

 ひとくちに「議論」と言っても、その内実は当然ながら色々なのだけど、少なくとも建前としては、それは「相手を『やっつけよう』とするためのものではなくて、むしろ互いに敬意を払いつつ、論題に関する意見を交換し、参加者それぞれの認識を深めて、問題の事態に対するよりよい対処の仕方を模索するための一助とするもの」であると考えられることが多いだろう。「議論」ではなくて「対話」と言えば、そうしたニュアンスはさらに強いものとなる。

 ただ、ツイッターなどのSNS上の「議論」や「対話」は、そうした美しい性質のものにはならず、むしろまさに互いを「やっつける」ことを目的とした言葉のやり取りに、しばしば終始してしまいがちである。これは「議論」の参加者たちがそれぞれに匿名アカウント同士で「リアル」での関係がないから、相互に「人格的な信頼感」を懐けないためである、という側面もたしかにあるだろう。とはいえ、「リアル」で互いに知り合っていても、やはりウェブ上の「議論」や「対話」となると上記のようなことになってしまうことはあるわけだから、そこには他の要因も作用しているように思う。

 一つ考えられるのは、SNSなど公開のウェブ上の「議論」や「対話」は、それが「観衆」を前提としたものであるがゆえに、「目的」が(既述のような建前からは)変質してしまいやすいということだろう。「観衆」が存在しておらず、その場には参加者しかいないような「議論」であれば、その目的は「テーマについて互いに意見交換して認識を深め合うこと」の範囲に留まりやすいが、そこに言葉のやり取りを観測して時に「ジャッジ」する観衆の存在があると(その数が多ければ多いほど)互いに相手を「やっつける」こと(そして、自分が決して「やっつけられない」こと)に対して、「議論」を行う当事者たちのインセンティブがはたらきやすくなってしまうということである。

 個人的には、「議論」にはとくにそれが公開の場で行われる場合には、「公衆の面前で『勝ち負け』をはっきりさせることによって、どちらの主張に理があるかを広く一般に知らしめること」という機能も(一面では)備わっているように思われるので、いわゆる「公開討論」がしばしば「戦い」の様相を帯びることを、一概に否定はできないと考えている。

 ただ、SNS上での言葉のやり取りというのは、既述のような「対話」の建前を外観上は維持しながら、実質的には「公開討論」として互いを観衆の前で「やっつける」ことが目的になってしまうことがしばしばあるし、この事態を完璧に避けるということは、実際のところ「構造上」非常に困難である。

 そんなわけで、私は個人的な方針として、ツイッターなどのSNS上での「議論」は基本的にしないことにしているし、ネット経由で知り合った人と公開の場で少し「深め」の言葉のやり取りをしたい時には、(互いに尊重と気遣いを表現しやすい)ツイキャスなどでの話し言葉を通じたトークによることにしている。

 今日これから行うフキさんとのコラボキャスも当然その一環であるし、今後も同様の試みを通じて、困難であることがわかりきっているウェブ上での公開の「対話」というものの成立可能性を、少しばかりでも示すことができればいいと思っている。

(※このあとに文章はありません)

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