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無自覚の有意味

なんだかんだで、ほぼ毎日フルーツを食べる機会があるのだが、「日本の果物は美味しい」というのは、たしかに本当だと思う。もちろん、マンゴーやパパイヤなどの南国のフルーツはミャンマーのほうが美味いのだが、それ以外の果物になると、総じて日本のほうがクオリティが高い。東南アジアではなくて、欧米などに滞在した人でも同様の感想をもつことはあるらしいから、やはり技術的な卓越性があるのだろうか。


ツイッターTLの議論に触発されて、いわゆる「政治的な正しさ」について、つらつらと考える。私自身は、もっと若い頃には「事実を抑圧して維持される『政治的な正しさ』なんて全てクソだ!」とナイーヴに考えていたのだが、例えばミャンマーのように多種多様な民族が住み、多種多様な人々が、多種多様な言語を喋って多種多様な宗教を信仰している国に住んでみると、「事実」や「本音」を抑圧して社会的に維持される「政治的な正しさ」にも、一定の合理性はあるのだということが、実感としてわかるようになった。

ただ、問題はそうした社会の運営上の都合で便宜的に維持されている「政治的な正しさ」について、人々にどの程度の自覚があるのかということである。「政治的な正しさ」をネタではなくてベタのレベルで受容する人々が増えて、それを「事実」として主張しはじめたら、「いやいやそれは『事実』ではないでしょう」と、突っ込みを入れたくなる人が出てくるのは自然なことだ。

そして、ここでさらにやっかいなのは、そのようにネタをベタとして受け取る人の数が増えることは、社会に「政治的な正しさ」を定着させ、それを円滑に流通させるためにはむしろ有効だと考えられることである。例えば学校教育において、「これはあくまでネタですけど、社会の維持には必要なのでそういうことにしておきましょう」などと教えてしまえば、その「政治的な正しさ」が有効に機能することは期待しづらいだろう。要するに、公には「これはベタに正しいんです」と言い続けなければいけないのが「政治的な正しさ」なのだから、それを本気で信じてくれる人が増えることは、「政治的な正しさ」を維持する目的からすれば、基本的には合理的であるということである。


もちろん、こんなことは政治学にも社会学にも素人の私が、ちょっとツイッターを眺めて考えた程度の話であるから、専門家のあいだでは、このレベルのことはとっくに論じつくされているのだろう。

ただ、私の個人的な好みとしては、ベタな現実や事実を真摯に問題にしようとしている人を、ネタの話で問答無用に殴りつけるのは、やはり見ていて気分がよくないし、とくに「政治的な正しさ」を他人を攻撃する武器として使用しつつ、本気で「私は何も踏みにじっていない」と思い込んでいる人に対しては、「ちょっと待ってください」とも言いたくなる。

とはいえ、そういう無自覚な人たちを社会に存在させておくことにも一定の合理性はあるのだろうから、そういうことを考えると、社会思想に不得手な素人としては、ちょっと頭がぐるぐるしてしまう日々なのである。


※今日のおまけ写真はタイ寺院の野外瞑想場。ちゃんと蚊帳も備えてあって、なかなか気持ちよさそうです。

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