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Black or White

人生を変えた出来事はなにか?
ともしインタビューで訊かれたら、

『2016年の暮れ、ツイッターで高木祥太からDMを貰ったこと』

と答える。多分。

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音楽を通じて関わる人たちに、DinoJr.のことをなにで知ってくれたのか訊ねると高確率で、

「BREIMENのBlack or Whiteからです」
と返ってくる。
(冗談抜きで、90%ぐらいの人がこう答える)

実際、いま付き合いのある半分ぐらいの人たちはBREIMENを通じて繋がったと言ってもまったく過言ではない。
祥太がおれを見つけてくれなかったら、おれは今頃どこにいてどんな人生を歩んでるだろうとふと考えることもあるが、そんな想像をすること自体が不毛だなと思えるぐらいにあの日からおれの音楽人生は事実として180度変わってしまった。

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最初の打ち合わせは渋谷の小さなカフェ。
キーボードのだーいけが時間通りにせかせかと現れて、祥太が何分後かに遅れて到着した。

地下にある淀んだ空気のカフェで、おれは恐らくレトルトだろうな思われる安っぽいナポリタンを頼んで惰性で食べていた気がする。(そのカフェは程なくして潰れた)

祥太がまず、こんな曲を作ってるんだよねとワンコーラス程度の短いデモを聴かせてくれた。
ド直球なファンクのイントロにあの印象的な"白、黒♪"のリフレイン。

「おれとDinoくん(当時はまだくん付けだった)でひとりの女の子を巡って、白黒つけようぜっていうコンセプトにしたい」と告げられ、内心(そんなの勝ち目ねえだろ…)などと思いつつ、おれが大枠の作詞、祥太がその詞に合わせて曲の残りを組み立てていくという制作の方向性が定まった。

小手指にあるレコーディングスタジオに2〜3日通ってほかのバンドメンバーとともに制作を重ねた。
当時はおれもまだ人見知りが抜けておらず、メンバーとの距離感を掴もうと必死だった気がする。そして、みんな揃いも揃って変な奴らだった。
さすがに全員楽器が上手いので、レコーディングのスムーズさに舌を巻いた。するすると難しいアレンジが組み上がり、唯一無二の音楽が出来上がっていく。
無礼メン、やはりただものじゃねーなと感嘆しつつ、おれもそれに応えるように精一杯歌を吹き込んだ。

曲が完成したあとはMVも撮影した。
午前0時に渋谷の小さな撮影スタジオに一番乗りし、そわそわとメンバーを待った。(おれは基本待ち合わせ場所に早く来すぎてしまうタイプだ)
当時の無礼メンのドレスコードである黒の衣装をおれも同様に身に纏い、監督である2025のディレクションのもと、カメラの前で全力でカッコつけた。
ほとんどバンド経験のないおれにとってバンドの一員としてMVに映る経験は新鮮で、回を重ねるごとに徐々に生まれてくる不思議な一体感が心地良かった。

祥太との距離感をまだなんとなく掴めていない段階でどれぐらいグイグイ絡んでいいのか最後までわからず、MVを見るたびに「めちゃくちゃぎこちないな、おれ…」と毎度恥ずかしくなるが、それも含めて心から大事な思い出となった。

祥太がボーカルを取る新体制となってからの無礼メンの初ライブが下北沢GARAGEにて決定し、同時におれもそこにゲストとして参加することが決まった。
ベースボーカルを始めたばかりの祥太。そもそもが非常に難解な無礼メンの曲を、あろうことかそれをベースラインを弾きながら歌うなど、途方もない練習を要したに違いない。
さすがの祥太もやはり何度か苦しそうな瞬間を迎え、声も上擦り、歌詞もたびたび飛ばしたが、それでも最後まで堂々とステージをやり切った。

白黒つけようぜ、なんて言ってるが、お前のほうがいまんとこ、圧倒的にカッコいいよ…とその姿を見ておれは思った。

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そこから無礼メンのみんなと、数え切れないぐらい一緒にライブをした。
いつしか無礼メンはBREIMENへと改名し、おれは2ndアルバムをリリースし、そしてコロナ禍が訪れ、Kroiを巻き込み東阪名のツアーを強行開催した。

今ではBREIMENもZeppに立つほどの実力をつけ、おれは彼らを遠くからただ眺めるだけの存在になってしまったが、今でも大事な舞台におれを呼んでくれるBREIMENのみんなにはどれだけ感謝をしてもしきれない。
あの乾いたハイハットとギターのカッティングが鳴り響くたびに、ああ、この曲はおれの人生に用意されたテーマソングだったのかもしれないと思う。

いつかでかいステージで、本当の意味で「白黒つけようぜ」とちゃんと向かい合って歌えるように、おれもまだまだ頑張らないといけないな。
BREIMEN、いつも本当にありがとう。

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