平凡な奇跡
ふと思い立っての個人語りです。特に皆さまの探求のお役に立つ情報ではありません。スミマセン。
お時間のあるときにでも、もしよければお読みください。
精神世界の夜明けに
わたしにとっては、そのときもいまも、足が震えるような奇跡の分岐点でした。
独身時代に大阪で暮らしていたときのことです。精神世界と言われる界隈の書籍が、十年遅れで米国から翻訳され、日本でも読めるようになってきた頃でした。
シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』を皮切りに、次々と翻訳本が手に入るようになり、やがてバシャールが登場。日本の書店にも精神世界と題された書棚が出てきたのです。
もともと本好きのわたしは、精神世界、ニューエイジという新しい世界にワクワクし、大阪梅田の紀伊國屋書店の精神世界棚を、片っ端から読破していきました。
それまではオカルトか宗教といった分類だったアヤシイ世界が、思想・詩・宇宙・次元・アートといったオシャレな枠組みに再編され、関連本がとめどなく刊行される黄金期になったのです。楽しかったなー。
ところが、ある日、まったく突然に、こんな疑問が頭にわきました。
理由なき黒い疑念
当時はいまの自分と違い、まだ思考モリモリで、言葉による思考が常にあたまにありました。が、このときの疑念は、経験したことが無いほどの強く硬いものでした。
それは出掛けた先から自宅へ帰宅する途中の、乗り換え駅で起きました。
「モシモ、コンナ精神世界ナンテモノガ、ゼンブ、嘘ダッタラ?」
「米国発ノ、誰カガデッチアゲタ、バカバカシイ嘘、ダッタラ?」
「コノママ信ジテテイイノ?コレ」
それは頭のなかの強い声で、叱られた子どものように胸の奥までシュンとなりました。急に壁にぶつかったような気分になったんです。
シュンとなったまま、その乗り換え駅から「ちんでん」に乗ったのですが、そのとき、強く
(しるしが欲しいです。これらが真実なのか、嘘なのか)
と念じました。
「ちんでん」とは大阪市内南部~堺市を走る一両編成の電車です。車や人の通る路面に敷かれた線路も走ります。もちろん路上では車と同じ信号機で止まります。
さて、ちんでんの中は空いていて、いつもの席に座り、わたしはイヤホンで音楽を聴いていました。そこからガタンゴトン、と二駅ほど走ったあと、突然に急ブレーキがかかり、電車が途中停車したのです。
それだけではなく、停止後、なんと運転士さんが運転席を離れて、車内へ駆けてきました。
‥‥まっすぐ、わたしのほうへ。
分岐した次元
「お客さん! だ、大丈夫ですか!?」
イヤホンでヘビメタ音楽をガンガンに聴いていたわたしは、びっくりしてイヤホンを外し、目の前の運転士さんや車内の乗客の全員が自分を見ていることに気づきます。いや、わたしの後ろを見ています。皆、青ざめています。
ていうか全員、腰を浮かして立ち上がってる。
恐る恐る自分も立ち上がり、「え? ええ?」と動揺しながら後ろを振り向くと、わたしの座っていた席の後ろの窓ガラスが割れて、ほとんど無くなっていました。
が、そこは戸袋になっていて、その窓だけ二重窓になっていたのです。
その、外側の窓ガラスが割れて無くなっていたのでした。
真正面に座っていたお婆さんがおっしゃるには、レンガのような大きな石が投げつけられたそうです。走行中の電車への、投石事件だったのです。
それを聞いた瞬間、目の前の床に血まみれで倒れている自分が見えました。写真のようにありありと見えました。
(分岐した‥‥)
そう思いました。現実が、次元が、二つに分岐した。
投げられた石の角度と、電車のスピードのコンマ何秒の奇跡で、外側のガラスだけが割れたのです。わずかにズレれば、他のガラスが割れ、車内にいた誰かが必ず大ケガをしていたでしょう。
(ああ、疑いを持ったほうのわたしが死んだ‥‥)
震えが足からのぼってきます。投石と車両破損事故に遭ったという事実よりも、疑いの問いから現実が分岐するところを見た、という衝撃でした。しるしを望んで、これ以上無いはっきりとしたしるしを得たのだと感じました。
(わぁ、死んだ。わたし、死んだ)
(もう一生疑えない‥‥)
破損した車両からの交換乗り換えは、わたしが降りる駅よりも先の駅で行われるということでした。それでそのまま、乗っていくことになりました。
向かい側の席に座りなおし、割れた窓を見つめながら、精神世界、スピリチュアルなものって、有るんだ、本当に有るんだ‥‥と粛然としていました。
いつもの駅で電車を降りたとたん、膝がガクガクとなって立っていられず、柱にすがりつきました。運転士さんは、大変申し訳ありませんでしたと運転席から頭を下げられました。
地元で十年以上、通学に通勤にと、ちんでんに乗り続けましたが、こんな事件はこの一回きりでした。(単純な車両故障で止まったことは一回ありました)
それが自身の深い疑念とリンクして起きたのか、偶然なのかはわかりません。が、以来「精神的なもの」は現実と一体なんだ、という認識がわたしのなかに深く形作られました。
それ以上の解釈はしないまま、四半世紀が過ぎましたので、取ってつけた解釈はやめておきます。
ちんでんはどれもピカピカの車両に変わって、いまも元気に走っています。一部に連結車両の特別車もあるようです。それは内装もおしゃれで、帰郷した際に一度だけ巡り合って乗りましたが、あれ、良かったなぁ。もう一回乗りたいなぁ。
以上です。とても個人的な思い出語りでした。
なぜか思い出し、書くといいよという雰囲気?がお腹にあったので、書いてみました。
読んでくださってありがとうございました。