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淡い嘘

ばぶ江さんは、わたしの娘。
不思議なご縁の人という感覚に包まれる。

ある5月、公園を散歩中に誰かに見られている気がした。
新緑が機嫌良く音をたてていて、毛がくるくるとカールしたカフェオレみたいな色の犬が愉快に散歩をし、サバ寅の野良猫が丸い石の上で日向ぼっこをしていた。
わたしは、まだ生まれて数ヶ月のお餅みたいな肌のよく泣く息子と、草むらにシートを敷いて仰向けになりくつろいでいた。
ふと、「誰かがわたしたちを興味深く覗いている」そんな気がした。気持ち悪いとかそんなんじゃなく、わたしは心の扉を不用心に開けたままにしておいた、何故だか能動的に。そよ風が何度か通り過ぎて扉がバタついていた。
それはまだ姿のない、ばぶ江さんとの初交信の日だったのだと思う。
わたしはそのあとすぐに妊娠が発覚し、足が浮いてしまうくらいに嬉しくなり、わくわくして眠れない夜を何度か過ごした。なんていうか、大きな味方地球にあらわるといった感情がわたしを暖かく抱きしめたのだ。
そんなことは生まれて初めての経験だった。

ばぶ江さんとは、妊娠中の10月10日、ほぼ毎日交信をした。胸の奥で語りかけるとお腹を蹴る。そんなシンプルな交信である。不安な時には何度も呼びかけて返事を貰った。
その頃のわたしの心の健康状態といえば、慣れない義母との同居、初めての育児に加え睡眠不足も重なって、深海にいるように辺りが真っ暗で、不安な泣きべそ顔の可笑しな千鳥足で生きていた。例えるなら戦場で誰かからの手紙を待つような気分、ミスター・ロンリーの歌詞のような。

ばぶ江さんの印象は、
ずっと前の前の前の前から友達だったような、懐かしい人なのだと感じた。まだ実際に会ってないのに懐かしいだなんて、なんだか変なのだけど。

生まれた後もわたしの良き理解者となった。ばぶ江さんはいつもわたしの手を取って励ましてくれたし、わたしは必死にばぶ江さんの生命を維持した。不器用ではあったけれど。
一方的な愛ではなく「交換」している実感があった。わたしにとっては不思議な感覚。今まで誰とも愛の交換などしてきてなかったかのような。もし、ばぶ江さんが窮地に追いやられたとしたら、わたしの命と引き換えになんてドラマチックなことを今でも、変わらずに思っている。

わたし達の最初は、そんな風に互いを思いやっていた。いや、今でもわたしは継続中なのである。あれから12年を過ぎて、ばぶ江さんは大人という狭間で揺らいでいる。あんなに好きだと言ってくれたことも、すっかり忘れたみたいに、そっけなく関係が過ぎていく。そしてばぶ江さんは小さなごまかしや、分かりきった嘘をつくようになってわたしを不安にさせる。あの時とは反対に。まるで台風の前日のように不気味な空気を纏って、冷たく美しく微笑んだりもするのだ。もしも、デヴィッドリンチなら彼女をどう撮るのかな、なんて思う。

わたしは毎日、見たこともないようなばぶ江さんを見てしまう。一般的にそれは「良いこと」と、されているけれど。

そんなわたしとばぶ江さんの間にある細い深い溝を、月がからかうように照らして光っていた。ある晩火星人が降りてきて、ばぶ江さんの小さな嘘を拾い集め、花輪のように輪っかに編んで赤いリボンを結び、わたしの頭へ乗せたのだ。鏡を見たら素敵だった。
しばらくわたしは、鏡をずっと見ていた。

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