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吐き出しちゃう!

こんにちは、こんばんは。

お久し振りです。

今朝、祖父が亡くなりました。
冒頭から暗くて、おいおいって感じですがお許しを。

知らせを聞いたのは夕方。母からでした。ずっと入院しているのは聞いていたので、あぁ、ついにきたんだなと。
素直に悲しめたらいいのですが、胃がギュッと。

私が大学二回生くらいの時、母が事故に遭いました。祖父がブレーキとアクセルを踏み間違えたのが原因です。

駐車する為に誘導していた母を車が乗り上げました。脚の肉がえぐれ、全身出血多量で救急車に運ばれ、輸血を受け…

私はその日、大学で授業がありました。
先に家を出ようとする母に「何時に帰ってくるん〜?」と声をかけた気がします。

いつもと変わらない、何気ない会話。

夕方頃帰宅して、妹とテレビをみていました。夜になっていたと思います。祖父母が息を荒げて入ってきました。祖父は何度も謝りながら土下座しました。

ここから記憶が曖昧ですが、しばらく私と妹と父で生活をしました。時々祖母が来て、生活費を置いて行きます。

父は仕事をしていたので、家事は私と妹で分担していました。当時、二回生だったと思います。誰にも言えませんでした。友達とはいつもと変わらず接しました。でも気を抜くとぼーっとしてしまい、勝手に目から涙が出そうになります。悲しいのか、不安なのか、怒りなのか当時の心境は全く思い出せません。そんな様子に気づいて「なんかあった?」と声をかけてくれる友達がいました。それでもやっぱり言えませんでした。なんでもないと誤魔化すので精一杯でした。

今の私以上に大変な思いをしている人は沢山いるし、みんな言わないだけでなにかしら抱えて我慢してる。自分だけが不幸だなんて絶対に思いあがっちゃいけない。可哀想だなんて思われちゃいけない。
なぜか強くそう思ったのを覚えています。

その呪縛は未だに解けず。
誰にも話せずに今に至ります。

唯一、一人だけ話せたのが所属していたゼミの先生です。
見た目はう〜ん、ジャムおじさん。いつもニコニコしてるけど、めちゃくちゃ偉い先生です。

ゼミ合宿の出欠締切日が迫っていました。
家がぐちゃぐちゃで、合宿費出して欲しいなんて言えるはずもなく、貯金もない貧乏学生。
ゼミ合宿は毎年あったので、一回くらい参加できなくても…なんて考えていました。それでもなかなか欠席の決断ができず、先生に相談することに。
先生はいつもの笑顔で、費用を貸してあげるからしっかり計画を立てて卒業までに返してくださいねと言ってくれました。合宿中に、先生にお礼と一緒にほんとにサラッとだけど、母が、事故で、と涙を堪えながら話しました。
ほんとに二言くらいだけ。それでも心が軽くなったのを覚えています。

なかなか出欠連絡を返さない私になにかあったと察してくれたのか、ゼミ長や友達がお金貸そうか?と声をかけてくれました。借りはしなかったけど、気にかけてくれたのが嬉しかったな。しみじみ。

最初は妹と二人で健気にがんばってましたが、日を経つに連れて怒りが込み上げてきて、時々生活費を置いていく祖母に八つ当たりするようになっていました。

お金足りない!

祖母はもうお金ないと泣いていました。

妹はバスに揺られて定期的に母のお見舞いに行っていました。私はずっと行けずにいました。怖くて。見て見ぬ振りをして、なんとかやり過ごしていたい、向き合う勇気がない。永遠にこのまま逃げていたい。

妹は強いです。

母は私にずっと会いたがっていました。妹から聞く度に苦しかったです。一緒に病院へ行こうと何度も声をかけられました。でもずっと行けなかった。現実を受け止めるのが怖くて怖くてたまらなかったです。

何度断ったか。顔を見るだけ…やっと母に会う決意をしました。真っ白な病院。薬品のような鼻につく匂い。病室の母は抜け殻のようでした。私の顔を見るなり大泣きして、会いたかったと。天真爛漫だった母は精神が不安定で鬱状態のようになっていました。

なんて声をかけたのか、どんな顔をしてどんな会話をしたのか全く覚えていません。とにかく怖くて、辛くて、悲しかった。帰り道に妹とクレープを食べました。

私が病院へ行ったのはその一回だけ。

なんの相談もなしに、引っ越しが決まりました。物心ついた時からずっと住んでいた家を離れることになりました。祖母が勝手に決め、段ボールに次々と物を詰め込んでいきました。
祖父母の家と私達の家が入れ替わりました。理由は、母が戻ってきた時用にあちこちに手すりを設置する必要があるから。
今の家でもできるのでは?なんでわざわざ家を入れ替える必要が?疑問だらけでしたが、単純に生まれ育った家を追い出されることに怒りを感じ、必死に抵抗しましたが勝てませんでした。

まだまだ子どもの私には大人達が決めたことを覆す権力はなく、私達は祖父母の住んでいた暗くて日の当たらない、冷たい部屋に追いやられました。

もっとお金!あんた達のせいでこんなことに!

八つ当たりしてしまった私への祖母からの復讐だったのかもしれません。

夜中のバイトを始めました。退勤後は始発までネカフェで過ごし、朝帰って軽く寝て学校に行く。帰宅して夜バイトへ行く。その繰り返し。

アルバイト代を使ってコンビニでご飯を買い、散財していました。

しばらくして母は退院し、部屋に設置したベッドで過ごしていました。高知から母方の祖父母が様子を見に来て泊まることもありました。

母は子どものようでした。すぐに泣いて取り乱し、表情も暗く、本当に毎日ただ生きているような。

私はますますバイトを入れ、家で過ごす時間を減らしました。ただひたすらに逃げて逃げて逃げて。

成人式を迎えました。前撮りは一人でした。一人でお店に向かって、家族で来ている同年代のみんなをかき分けて、ニコニコ。可愛くたくさん撮ってもらいました。
式当日は友達とその家族に同乗させてもらい、会場に向かいました。
あいにくの雨だったけど、晴れてたらもっと悲しかったかもしれないです。雨でよかった。
周りに気を使ってずっとニコニコしてたけど、ずっと周りが羨ましかったし、本当は憎くて仕方なかったです。

着物は母と選びました。携帯のフォルダにはその時の写真が残っていて、ずっと見ていくと一人で行った前撮りの写真。切ないね〜成人式は苦い思い出です。

お風呂へ行く時や着替えをする時、母の脚の傷が目に入ります。皮膚を移植し、変色し、へこんでいます。一生走れない。曲げることもできない。杖をつきながら歩く姿。
お洒落をするのが好きで、スカートを履くのが好きだった。もう脚は出せないと言う。見ているだけで辛いのに、本人はどれだけ辛いか。そのショックは計り知れない。

段々と心がしんどくなってきて、私はまた逃げることに。

ずっと反対されていた一人暮らし。無理矢理押し切って、家を出ました。家賃や初期費用を半分出してもらい、大学近くに引っ越しました。

三回生。はじめての一人暮らし。夜中は街を徘徊し、明け方帰宅し、授業をサボったり、友達の家に泊まったり、とにかく遊び呆けました。就活に入り、私は実家に帰ることにしました。

久し振りに帰ると母は明るくなっていました。前みたいに冗談を言ったり、友達とお茶したり、習い事も始めていました。

私が家を出て、逃げて、好き勝手に過ごしている時、妹はずっと母を、家を支えていました。私と違ってありのまま友達に相談し、頼れる人もいました。
母も妹も強く、私がいない間にきっとたくさんの困難を乗り越えたんだと思います。

幼少期は近所に住む祖父母の家に頻繁に遊びに行き、チキンラーメンをこっそり食べさせてもらい、一緒におはじきで遊んだり、公園にもたくさん連れて行ってもらいました。

でもあの事故以来、二人には一度も会っていませんでした。十年以上経ちます。

一度だけ、母が不在の時に祖母が合鍵を使って入ってきました。セーターを編んだから母にあげて欲しいと。祖母はちっちゃく縮こまり、ヨボヨボになっていました。祖父とは結局会えずでした。憎い気持ちは消えないけど、祖父が亡くなった今、どういう心情でいればいいのか分かりません。

明日お通夜があり、明後日にはお葬式があります。人が死んだ後ってこんなにスピーディーに物事が進んでいくんだなと。あっけない。

母は参列するみたいですが、どんな気持ちなのか。父は泣かないだろうか。この十年間、実親と母と母方の祖父母にどう思っていたんだろう。

東京からときどき帰省しますが、母の脚の傷やお風呂場にある背もたれ付きの大きな椅子、トイレや階段の手すりが目に入る度に、辛くなります。未だにやっぱり向き合えずにいます。

でも、今回の祖父が亡くなったことを機に少しずつでもいいから向き合っていきたいと思っています。お墓参りも行きたい。もう誰かが泣くのは見たくないな〜自分はすぐ泣くんだけど(これを書いている間ずっとオエオエ泣いています…)、人が泣いてるとどうすればいいのか分かんなくて困っちゃう。

とっても、とっても長くなりましたが、はじめて全て吐き出しました。

誰にも本当に誰にも話せなかったので、ずっと苦しかった。許されたかった。しんどかったね、大変だったねって本当は誰かに言って欲しかった。

弱虫なのに意地っ張りで、大変ですわ。

この投稿、勢いでばぁーっと書いちゃったんで、誤字脱字、分かりづらさあると思うけど見返せない!元気になったら覗いてちょこちょこっと書き換えていこうと思うよ。

それでは!

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