ねこ大統領〜またたびの覚醒〜

 前回の文でスター・ウォーズの楽しみ方、魅力は人それぞれと書いた。

 ねこ大統領もまた子どもの頃から観てきた(エピソード1〜6)スター・ウォーズの魅力として、多様性が挙げられる。酒場にたむろする宇宙人、謎の楽器を演奏する宇宙人のバンドマン、共に戦う宇宙人。常に対等で、時には味方、時には敵等、人間以外の魅力に溢れた登場人物が多かった。
 子どもの頃に観て、妙に納得した記憶がある。宇宙に出たらこういう感じだよな、人間だけじゃないよなと。友好的な種族もいれば敵対する種族もいる。人間の世界も同じだなと感じていた。
 しかしながら、エピソード7以降からは、同僚の宇宙人は登場するが、心なしか人間とそれ以外に一線が引かれているように感じた。
 そして、昨今流行りの多様性やポリコレを取り入れたのであろう、女性や黒人の活躍や同性愛等のシーンが散見された。それは、時代の変化だし当然のことと思う。黒猫が横切ると不吉という時代はジジの登場と共に終わったように。
 ただ、その一方で、アクバー提督は死に、司令官(みたいなポジション)は、人間になった。ストーリー上仕方ないとはいえ、主人公の師匠も人間。何だか人間讃歌ールネッサ〜ンスと叫びたくなるような構成であった。宇宙全体からみれば人間なぞ1つの種族でしかないのに。もちろん、エピソード7以降も共に戦う宇宙人はいる。でも活躍しない。そして、アクバー提督は死んだ。
 そう、アクバー提督が、無意味に(監督に)殺されたことで、ねこ大統領のスター・ウォーズに見ていた多様性が失くなったのだ。艦隊を率いて、勝ち目の薄い戦いに挑み、人間の無謀な作戦に手腕でもって応える。そんな有能な提督が無意味に死んだ。監督と権利元のディズニーの西洋的なナチュラルな差別意識を見たような気がした。
 率先して多様性を取り入れてるように見えるディズニーだが、根底にあるのは白人優位の多様性をねこ大統領は感じてしまうのだ。
 ディズニーの世界では、特に近年多様性を強調している。しかし、それは擬人化され人間の社会を模倣しているものであって、本当の意味の多様性とは違うものではないだろうか。一見、多様性を持っているが、実のところは人間と獣、人間と非人間を明確に分けているのではないだろうか。と、近年ディズニーに対して思っていることが、スター・ウォーズを通してより鮮明になってきている。
 思い返せば、多様性という言葉はなくとも、ねこ大統領は子どもの頃からアニメを通じて学んでいる。ねこ型ロボットだったり、妖怪だったり。ねこ大統領だけではなく、日本人はアニメを通じて多様性を学んでいるのではないだろうか。
 スティーブン・スピルバーグは、黒澤明監督に影響を受けたそうだ。それだったら、日本人の監督の方が上手く物語を引き継げたのでは、と思う。
 山田洋次監督とか。口上でダークサイドを改心させて、一件落着とか。それなら、スター・ウォーズは、後20作くらいはできるはず。

それを言っちゃぁおしめーか。

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