生きていれば、空想でまた会える。空想があるからこそ、繋がれる。

 昨日、2023年6月14日、米津玄師『空想』さいたまスーパーアリーナ公演を観てきた。ここから先はライヴレポートでも何でもなく、私の心のつぶやき、心のメモ。何の脈絡もない、心の覚書。

 みんなそれぞれの生活があって、それぞれの人生がある。普段は交わることのない人たちが、空想を通して出会い、楽しくて美しい時間を過ごした後、また別れて、明日からはまたそれぞれの日々を生きる。その一瞬の刹那。時にしんどくて面倒くさい現実の生活とちゃんと向き合うからこそ、空想の大切さに気づく。そして、空想を通して、現実の世界を生きていること、生きさせてもらっていることの素晴らしさを知る。

 歌声の表現力、歌声そのものが持つ表情。”diorama”の頃はちょっとのぺっとしていて無表情だった歌声。米津さんの歌声そのものが、米津さんの変化の証であり、進化の歴史。でも、歴史は過去の話であり、これからも書き加えられていくもの。

 実を言うと、長い前髪で顔を隠した米津さんに対し、私はどこか得体の知れない感じをずっと抱いていた。米津さんの音楽や言葉は空想的で物語的であると同時にとてもリアルなのに、米津さんという人物が、あの謎めいた見た目から、どこかキャラクター的というか、浮世離れしているように私には感じられたのだ。身体性や肉体性、実存性はライヴなどを通して立ち現れていたが、私は今回の『空想』で、ようやく、米津さんの、文字通りの人間性に触れた気がする。ミステリアスであること、シリアスであること、ある種の神秘性や崇高さ、気高さも、紛れもなく米津さんの様々な側面であり、魅力であろう。だが、そこにはどこか重苦しさや息苦しさ、近寄り難さがあったと私は感じている。ライヴ『空想』での米津さんのくるくると変化していく豊かな表情、軽やかなステップ、心を込めて力強く歌う姿、ところどころでの歌詞間違い、時に少し不安定な歌声、おちゃめでおもしろいおしゃべり、そこにいたのは普通の1人の人間だった。米津さんも、私たち1人1人とそんなに変わらない、普通の人間である、という安心感と親しみ。

 「ありのままで生きるとはどういうことなのか。ありのままを否定するわけではない、でも、じぶんはありのままではどうしようもなかった。」
「自分が主役ではなくていい、音楽が主役。そこに自分がいなくてもいい。」
昨日の米津さんのMCで特に印象に残ったところの抜粋、私の曖昧な記憶であり、意訳。アンコールの1曲目で披露された新曲は、ありのままに対するのポップな皮肉だと感じた。そういえば、”かいじゅうのマーチ”の歌詞にも、《泥だらけの ありのままじゃ 生きられないと知っていたから》と出てくる。

 不思議なことに、米津さんが長い前髪を分けてお顔や豊かな表情を見せてくれ、マインスイーパーの小噺でオーディエンスを笑わせて、時にパーソナルな想いを私たちへ飾らない言葉で語りかけてくれ、以前よりもさらに、より人間らしさを見せてくれるようになった今のほうが、逆説的に《米津玄師》の空想性を浮かび上がらせている気がする。もちろん、1人の人間としての米津玄師がいて、きっとその地続きに、《米津玄師》という音楽や物語がある。現実と空想は同じであって同じではなく、切り離せるものではないのだ、きっと。主観と客観、自己と他者が、切り離せないのと同じように。作者と作品を結びつけることについては、意見が分かれる。作者と作品は別物だという考え方と、作品には作者の生き方や考え方が反映されているのだから切り離せないという考え方。私はそのどちらも正しいと思う。でも、そのどちらか一方ではなく、きっとその両方なのだ。作品には、作者の人生や考え方の一部が反映されているかもしれないが、作品は作者そのものではないのだ。その意味では、作者と作品は別々なのだ、きっと。

 私はその日、米津さんのライヴが始まる2時間前に、是枝裕和監督の映画『怪物』を観てきたところだった。私はその映画をとても好きだと思った。観て本当に良かったと思った。印象的な作品は、それに触れた人の心に、何とも言えない、言葉にできない、説明しきれない何かを残す。それは、傷のようなものなのかもしれない。痛みのような、悲しみのような、でも消えない何か、大切な何か、私の一部として残り続けるような何か。

 米津さんのライヴでのMCを聞いて、米津さんが2018年5月16日に投稿したブログ『ピクニック』の、以下の部分を私はふと思い出した。

「幻想の中に人を閉じ込めてはいけない。ぼんやり疲れる社会の中で、どうやって物語を終わらせて、どうやって後ろに引き継いでいくか。そういうのは大事にしたい。」

私は今の米津さんの姿を見て、ひとつの幻想から解放された気がした。そこには清々しさや軽やかさがあった。それはきっと、米津さんの空想や物語が終わるということではない。米津さんは、いつもひとつの物語を終わらせるたび、また新しい物語を紡いでくれる。何かが終わって、また新しい何かが始まる。これからも、米津玄師という音楽は続いていくのだ。

 最後に、この覚書に付けたタイトルが米津さんのこのライヴから感じたことの最終要約。

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