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米津玄師”Pale Blue”のMVが映し出す「美」

カラフルで奇抜なのに、エレガントで普遍的。

 《ずっと》米津玄師の”Pale Blue”における、この頭から離れないくらいに印象的なフレーズを聴いていると、繰り返しの美学、繰り返しの心地良さを感じる。それは終わらない、永遠の時間を想起させる。でも、私はふと思う。”感電”や”カナリヤ”で、一瞬一瞬の、刹那的なものに宿るきらめきを歌い、表現し続けてきた米津さんが、一見それとは正反対にあるように思われる《ずっと》という繰り返しの円環を、こんなにもストレートに、狂おしく歌い上げるなんて、と。でも思い返すと、”感電”の歌詞には、

《きっと永遠が どっかにあるんだと
明後日を 探し回るのも 悪くはないでしょう》

と出てくる。きっと、米津さんの音楽と表現において、刹那と永遠は、相反するものではないのだ。

 そんな風に想いを巡らせている中、ついに、2021年6月4日、米津玄師”Pale Blue”のMVがYouTubeで公開された。公開から2日後、私がこれを書いている今の時点ですでに400万回再生を突破しており、驚異的なスピードである。私はこのMVを初めて観た時、何とも言えない、目眩のような衝撃を受けた。でもそれは、爽やかな心地よさを纏った衝撃でもあった。そのMVは、自分の中にあった、ある意味ステレオタイプ化していた”Pale Blue”像を、鮮やかに塗り替えてくれたのだ。それは、”馬と鹿”のMVを初めて観た時の衝撃とも似ていた。”Pale Blue”も”馬と鹿”もテレビドラマの主題歌であり、あまりに素晴らしくドラマとシンクロしているがゆえに、どうしても曲とドラマのイメージが重なってしまい、良くも悪くも、自分の中で曲とドラマがセットになってしまっていたのだ。ところが、”Pale Blue”や”馬と鹿”のMVは、ドラマとは全く別の世界観を提示して、新たな「美」を表現している。出来上がってしまった楽曲のイメージを破壊し、再構築し、楽曲そのものが持つ美しさを観るものに再認識させてくれるのだ。私は“Pale Blue”のMVエンディングのクレジットを見て、山田智和さんが監督されたのだと知り、ものすごく合点がいった。

 まずこのMVを観て目と心が奪われてしまうのは、米津さんのエキセントリックでスタイリッシュな佇まいと、それがもたらす衝撃と違和感だ。淡いブルーにも淡いグリーンにも見える絶妙な色合いのセットアップと、襟足のピンクの組み合わせが、何だか米津さんの”Flamingo”のアートワークの色合いを連想させる。それに対比するように、風になびく船の帆のような沢山のシーツ、水と風と大地、空と海と太陽、祈りと踊りといった、ナチュラルでオーガニックなイメージが映し出される。私はこのMVを観て、すごく爽健美茶が飲みたくなった。それくらい、爽やかで美しいのだ。最初は米津さんの姿が奇抜に見えていたのに、それがだんだん、風になびくシーツの白、空と海の淡い青、夕暮れ時のブルーグレーの雲、草原や木々の緑、花束になった花々の様々な色や、夕陽のオレンジといった自然の色彩と美しく融合していることに気づく。まるで大地に咲く花のように、時には花束のように、米津さん自身が色彩となり、このMVの世界を彩っている。このMVにおいて、米津さんの存在そのものがカラーなのだと感じる。

 山田智和監督が手掛けた米津さんのMVにおいて、「祈り」と「踊り」はとても重要なモチーフだ。山田監督による米津さんのMV“Lemon”や”Flamingo”、”馬と鹿”、”カムパネルラ”においても、「祈り」や「踊り」が表現の根幹を成しているが、”Pale Blue”のMVでも、それを強く感じ取ることができる。”Pale Blue”のMVに菅原小春さんが出てきた瞬間、私は彼女の生命力に溢れた踊りが披露されるのを期待したが、違った。このMVでは、小春さんはむしろ、ダンスによる表現は抑え気味で、表情や眼差し、手や指先の動き、より自然な仕草によって、心の機微を表現している。彼女のどこか少女のような仕草や表情、眼差しに、静かでピュアでしなやかな、生命力と美しさが宿っている。むしろ、米津さんの方が、エモーショナルな心の動きを、ダイナミックで激しく、でもそれと同時にとても繊細で優雅なダンスにより表現している。この米津さんのダンスシーンが撮影された場所が築地本願寺だということをネットで知り、私は「祈り」と「踊り」の繋がりを感じずにはいられなかった。米津さんは、長い手を大きく広げてくるくると回しながら、脚を上げ、ぐるぐると渦のように回っている。その姿は、どこか悲しみと狂気を帯びていた。それは、軸を失ったバレリーナのようであり、羽を高く広げたフラミンゴのようでもあった。

 “Pale Blue”のMVでは、米津さんも小春さんも、言葉にならない何かを、表情や身体の動きで表現している。それが、このMVに、儚くて美しい物語性を与えている。2人の手や指先の動き、床に寝そべり這うように動く姿が、シンクロしている。2人がそれぞれ匍匐前進のような動きをしている姿が、ドラマ『リコカツ』の紘一さんとどうしても重なり、ちょっと微笑ましくなる。2人のリンクする身体の動きから、今はもう一緒にはいない2人が共に過ごした時間や、心の中に今もなお残る面影や繋がりを感じ取ることができる。小春さんが、過去に米津さんが座っていたソファを後ろから愛おしそうに優しく抱きしめるシーンや、シーツに頭までくるまった小春さんが自分の両足の指を絡めてぎゅっとするシーン。2人が触れ合っていた頃の肌の温もりを感じさせ、切なくも優しく、愛おしい。それは、2人にしかわからない何かであり、”Lemon”のMVにおけるハイヒールと共通するものを感じる。

 米津さんは自身の音楽や表現において、常に時代の流れというものを体現し続けているが、それは”Pale Blue”のMVでの米津さんのメイクやファッションにも感じ取ることができる。“Flamingo”のMVで、米津さんは鮮やかなネイルをつけたり登場人物の女性と同じイヤリングをつけたりしていたが、“Pale Blue”のMVでも、米津さんは目やリップにメイクを施しているようで、どこかジェンダーレスな魅力を纏っている。私は個人的に、”Pale Blue”での米津さんに、David Bowieのような、どこか性別を超えた存在感を感じた。”Pale Blue”の歌詞にも、「オートクチュール」というファッションを連想させる言葉が出てくるが、『ELLE』や『VOGUE』といったファッション雑誌を読んでいると、最近はジェンダーレスなファッションをとてもよく目にする。去年米津さんが、GIVENCHYの洋服を身に纏った自身の写真をInstagramに投稿していたが、それもとてもジェンダーレスなスタイルだった。

 奇抜なのにエレガントで普遍的。やはり、米津さんと米津さんの音楽や表現は、時代を色濃く反映するクリスタルなのだ。無色透明なクリスタルであり、水道の蛇口でもある。時代を反映させる媒介。無色透明だからこそ、世の中の光や様々な色彩を反映させ、新たな「美」を映し出すことができるのだ。

#音楽文 #米津玄師

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