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家系について

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一族の始祖・岡崎市に在る八柱神社を建立した鈴木甚四郎重辰の先祖・子孫のまとめです。
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#重辰

先祖を振り返る【番外編】Side A: 江戸末期~明治時代初期 清太郎の時代

はじめに江戸時代末期から明治時代初期。 詳しく言及するまでもなく誰もが知る激動の時代だ。 著名人であったり、名を知る武将自身には興味があっても、本来、他人の家系図などに左程興味は湧かないだろう。 しかし、家系図の中に現代人の考え方に繋がる部分がある出来事があったため、また、「黙して語らず」という実直な生き方をしたために誤解をうけている先祖がいることを見つけたため、【番外編】としてそれを記したい。 『父・清太郎』『長女・せい、夫・吉次郎』、それぞれの生き方を2回に分けて書

先祖を振り返る⑤ 重辰の子孫たち

はじめにここまで、戦国武将・鈴木甚四郎重辰の先祖と重辰自身の系譜を辿ってみた。今回は重辰の子孫がどう生きたのか、系譜を用いて辿ってみたい。 理由は次とその次の記事に書く予定の人物に迫りたいからだ。 重辰の子孫 豊臣政権下で行われた刀狩などをはじめとする『兵農分離』の強化からか、その時代に帰農する大名・武将も多かったと何かの書籍で読んだ覚えがある。 重辰の子孫も多くが刀を置く道を選んだ。 重辰の長男・重焉、次男・重尹、三男・重澄と諱(いみな)があるため、兄弟は武士として

先祖を振り返る④ 鈴木重辰と現)八柱神社の建立

はじめに 予想より早くに重辰が『八柱神社』を建立まで辿り着いた。 本来は書きたかったことを大幅に端折ったからだと思われる。 兄弟口論の末に、重辰がどのような理由や伝手を介して桜井村(現:愛知県安城市)から欠村(現:愛知県岡崎市欠町)に来たのか、また、八柱神社を築いたのかを記したい。 桜井村から欠村に移住したわけとは 重辰が同じ三河の国とはいえ桜井村から欠村に移住したのは何故か。 私が所持しているiPadのマップで調べてみたが、現在の整備された道路を歩み11㎞の道のり。

先祖を振り返る③ 鈴木重辰と兄弟(子孫書き為す)

今回の時代 今回は重辰と兄弟のみにクローズアップしたいと思う。 具体的な時代は戦国時代(1500年前半~)。 日々、生きるか死ぬか。 誰が裏切るか。誰が味方か。 各々や各々の国がそれぞれの譲れない正義の下、しのぎを削った時代だ。 特に三河の国。 西に織田。北に武田。東に今川。 強大な武力をもつ3か国に囲まれた小国*1だ。 そしてその小国の中で誰が国を統治するか争う。 一度は松平清康公が三河の国を統一したが、様々な要因で早世。 その後は松平家・家中で統率者闘争が起き、西