マガジンのカバー画像

家系について

11
一族の始祖・岡崎市に在る八柱神社を建立した鈴木甚四郎重辰の先祖・子孫のまとめです。
運営しているクリエイター

#日本の歴史

大岡弥四郎事件と八柱神社とーー岡崎町奉行・松平新右衛門とは(1)

はじめに私の先祖の縁者に「大賀弥四郎事件」に加担した町奉行・松平新右衛門がいる(という記載が家系図にある)。 しかし残念ながら、松平家や新右衛門についての明確な記述のある文書は一切残っていない。 明治時代初期に当時)欠村で大きな火災があったからだろうか。岡崎市史にも明治時代以前の欠村に関する記述は極めて少ない。そのことから、明治時代の火災の影響が少なからずあるのかもしれない。 新右衛門に対しては、家康公に対する「謀反人」「裏切り」と思う方もいるかもしれない。 しかし、松平

先祖を振り返る④ 鈴木重辰と現)八柱神社の建立

はじめに 予想より早くに重辰が『八柱神社』を建立まで辿り着いた。 本来は書きたかったことを大幅に端折ったからだと思われる。 兄弟口論の末に、重辰がどのような理由や伝手を介して桜井村(現:愛知県安城市)から欠村(現:愛知県岡崎市欠町)に来たのか、また、八柱神社を築いたのかを記したい。 桜井村から欠村に移住したわけとは 重辰が同じ三河の国とはいえ桜井村から欠村に移住したのは何故か。 私が所持しているiPadのマップで調べてみたが、現在の整備された道路を歩み11㎞の道のり。

先祖を振り返る③ 鈴木重辰と兄弟(子孫書き為す)

今回の時代 今回は重辰と兄弟のみにクローズアップしたいと思う。 具体的な時代は戦国時代(1500年前半~)。 日々、生きるか死ぬか。 誰が裏切るか。誰が味方か。 各々や各々の国がそれぞれの譲れない正義の下、しのぎを削った時代だ。 特に三河の国。 西に織田。北に武田。東に今川。 強大な武力をもつ3か国に囲まれた小国*1だ。 そしてその小国の中で誰が国を統治するか争う。 一度は松平清康公が三河の国を統一したが、様々な要因で早世。 その後は松平家・家中で統率者闘争が起き、西

重辰の先祖を振り返る②(南北朝~重辰の父の世代:戦国時代)

追記: 誤記ありー2023年10月3日 はじめに詳細は江戸時代*1までの系譜を書いた記事をご覧いただきたい。 補足  *1 正確には武士をしていた先祖:~江戸時代初期 1636年に原本が記載された系譜) お急ぎの方は下記系譜をご覧いただければ幸いだ。 今回追っていく時代今回は鎌倉時代一部(詳細な記載がないため、この記述となる)~戦国時代(1500年代前半)までの系譜を辿る。 具体的には系譜の『純之』から『重則』を辿る。 しかし、『純之』から『重光』まで。時代で言

重辰の先祖を振り返る①(~鎌倉時代後期)

追記:タイトル ~室町時代後期としてありましたが、『鎌倉時代あたり』が正確でした。失礼いたしましたーー2023年10月2日 11:30am  はじめに家系図には清和天皇から記載されているため、清和天皇以降を書いていく。 上記家系図の詳細が以下のとおり。 分からないことしかし、家系図を見ていると首を傾げてしまう記載がいくつか見られる。 ①『源平藤橘』の強調か  前述のとおり家系図の始まりは清和天皇になっている。所謂『清和源氏』だ。本姓では源の氏族ということになる。

戦国武将・鈴木重辰

手元にある資料に基づいた私感です。 『通説』を批判するものではありません。 改めて、整合性などを検証する機会をもてば良いと思っております。 (一部編集 9/24 00:30) ゆっくりと家系図に沿った流れで書くと『八柱神社』創建にたどり着くまでに数か月かかるため、先に私感に基づく結論を記していきたいと思います。 現在の『通説』 失礼ながら、『源平合戦で戦に敗れ……』など、少しずつ先祖が遺した書き物と違うのです。詳細は今後記していきます。 創建した人物・年代は 先祖が