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家系について

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一族の始祖・岡崎市に在る八柱神社を建立した鈴木甚四郎重辰の先祖・子孫のまとめです。
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#日本史

【欠町・八柱神社】まとめ(前編)

はじめにこれまでも愛知県岡崎市に在る八柱神社@欠町について述べてきたが、ここで現在までに判っていること、また、「いつか書かなければ……」と思案していたことを前編と後編に分けて書いていこうと思う。 それで一旦、八柱神社@欠町に触れることは終了したいと思う。 古書等の読書中に見つけた文言等は、また、まとめて記載出来たらと思う。 ※八柱神社@欠町を管理なさる宮司さん・氏子世話役の方々と当方は無関係です。当方は上記の神社を建立した人物の子孫のひとりです 建立年度天正七(157

大岡弥四郎事件と八柱神社とーー岡崎町奉行・松平新右衛門とは(1)

はじめに私の先祖の縁者に「大賀弥四郎事件」に加担した町奉行・松平新右衛門がいる(という記載が家系図にある)。 しかし残念ながら、松平家や新右衛門についての明確な記述のある文書は一切残っていない。 明治時代初期に当時)欠村で大きな火災があったからだろうか。岡崎市史にも明治時代以前の欠村に関する記述は極めて少ない。そのことから、明治時代の火災の影響が少なからずあるのかもしれない。 新右衛門に対しては、家康公に対する「謀反人」「裏切り」と思う方もいるかもしれない。 しかし、松平

先祖を振り返る④ 鈴木重辰と現)八柱神社の建立

はじめに 予想より早くに重辰が『八柱神社』を建立まで辿り着いた。 本来は書きたかったことを大幅に端折ったからだと思われる。 兄弟口論の末に、重辰がどのような理由や伝手を介して桜井村(現:愛知県安城市)から欠村(現:愛知県岡崎市欠町)に来たのか、また、八柱神社を築いたのかを記したい。 桜井村から欠村に移住したわけとは 重辰が同じ三河の国とはいえ桜井村から欠村に移住したのは何故か。 私が所持しているiPadのマップで調べてみたが、現在の整備された道路を歩み11㎞の道のり。

先祖を振り返る③ 鈴木重辰と兄弟(子孫書き為す)

今回の時代 今回は重辰と兄弟のみにクローズアップしたいと思う。 具体的な時代は戦国時代(1500年前半~)。 日々、生きるか死ぬか。 誰が裏切るか。誰が味方か。 各々や各々の国がそれぞれの譲れない正義の下、しのぎを削った時代だ。 特に三河の国。 西に織田。北に武田。東に今川。 強大な武力をもつ3か国に囲まれた小国*1だ。 そしてその小国の中で誰が国を統治するか争う。 一度は松平清康公が三河の国を統一したが、様々な要因で早世。 その後は松平家・家中で統率者闘争が起き、西