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怨霊鎮魂使 第12話


第12章 橋本希美は、交渉士である

 

 北畠翔太が、相手を『弁慶』と呼びかけていた。
 弁慶って、あの弁慶だよね。わたしの空想世界にたくさん出てきた。そして今、日本中で大ブームが起きている、あの――弁慶。

 にわかには信じられない。

 でも、消す、とか、結界とか、北畠翔太があの時言ってたこと、おばあちゃんの手紙に書いてあったこととリンクする単語が出てきている。

 何よりも、声が聞こえる。
 何かに共鳴する感じがある。

【結界が破れ、怨霊が解き放たれるとき、18歳の男女が現れ、現世を救う】

 本当なの、本当なんだ。
 北畠翔太の真っすぐな視線。必死な目。

 ――このままじゃ現世がヤバいから。
 ――怨霊がらみでちょっとでもピンと来たら、俺に声かけてくれ!

 ピンと来た。来まくりだよ。
 怨霊鎮魂使。あんたが言ってたそれって、ドンピシャでわたしだよ!

 走っても、走っても、耳に声が入ってくる。どこにいても、道路の角を曲がろうが、コンビニの駐車場わきを走って通ろうが、耳に、脳内に、声が響いてくる。

 確か、前方に見えるT字路を左に曲がれば、あいつん家。この声が生放送されてる場所。って、なんか黒い煙みたいなのがただよってるんですけど!
 一戸建てが建ち並ぶ道路を曲がった。あ――――っ!!

 庭が、というよりも家全体が黒っぽい膜で覆われている。すっごいマガマガしくて不吉な感じ。家の表札は? 『北畠』間違いない!

 あっちからも、こっちからも、人が歩いてくるけど、誰も北畠ん家の様子を気にとめない。平然とした顔だ。家全体が、こんなにも黒々とした空気で覆われていたら、普通だったら気づくのに。どこかで赤ん坊が泣いてる? 声が、より大きくなってわたしの頭の中で響いてきた。

 ――弁慶、どうして結界を壊そうとするんだよ。
 ――貴様にそれがしの気持ちがわかるかぁああああっ!!!

 何やってんの!

 そんな高飛車な態度で接しても、知り合ったばかりの相手が心を開くわけないでしょうが!
 交渉の『こ』の字もないじゃない。説得したいなら、まずはしっかりと相手の言うことを傾聴しろっつううううーの! 柔らかい口調で、もっと神経つかえっつうの!

 わたしはバックパックからハッピを取り出して、着た。気持ちが引き締まる。先祖からの熱い想いが、ハッピを通じてわたしに力を伝えてくれている気がする。

 おばあちゃんの手紙――おまえは希望。遺志を継いで現世を救っておくれ。

 きっと何もしなかったら、わたしの明日は、明後日も、明々後日も、ずっと、間違いなく……灰色だらけ。だったら、自分で変えなきゃ、希望の色に! 

 決意とともに、わたしは庭に飛び込んだ。
 ぶわん、と空気というか時空のはざまみたいなものが揺れた。

 *

 ゆがんだ空間の中では、方向感覚が全くつかめなかった。
 自分が真っすぐ飛んでいるのか、横の方にそれているのかも分からない。

 もしも、この空間の先に北畠翔太たちがいなくて、ろくでもない場所に出てしまったらどうしよう。そんな不安をこの期に及んで思いついてしまった。すぐに声が出る。

「ぃやあああ~!!!」

 一瞬、光の束に目が眩んだ。無重力だった身体に重さみたいなものを感じた直後、わたしはお尻から地面に着地していた。

「いった~い……へ?」

 痛みをおぼえるよりも、もっと本能的な恐怖をすぐさま感じとった。わたしに向けられた凄みみたいな、圧倒的なパワー。その出どころに目を向ける――袈裟頭巾姿の鋭い目つきのオジサン。手には薙刀。べ、べ、弁慶?

 わ、と声をあげたいのに、喉がふさがったように声が出ない。息だけがひゅうひゅう漏れる。腰をぬかしてしまったのか、立ち上がることもできずに、ずりずりお尻を地面に引きずりながら後退する。

 そのさなかだった。誰かがガードするように、わたしの前に立つ。その後ろ姿。メッシュの入った赤茶けた髪。北畠翔太だ。

「サンキュ」

 北畠翔太がちらりとこっちを見て、親指を突き上げた。

 ……。だから、わたしはこいつのこういう気どったポーズが嫌いなんだってば。意識が袈裟頭巾男からそれたためか、今なら立ち上がれそうだった。手を突いて起き上がる。その間も、北畠翔太はわたしを守るようにしてくれていた。

 よく見ると、北畠翔太は、まるで平安時代の人が着るような青い水干姿だった。ドラマやマンガで安倍晴明が着ているような衣装だ。

「何か、凄い服を着てるね」

 わたしが口にすると、北畠翔太は「え?」と初めて気づいたようだった。いつの間にあのハッピが、ともこぼしている。

「橋本も同じようなん着てるぞ」
「嘘?」

 すぐさま自分の服を見る。「本当だ」

 わたしも、眼前の北畠翔太が着ているような水干姿だった。色は彼とは違う。白色だ。わたしもハッピを着たはずなのに。

「じーちゃんが言ってた」

北畠翔太が目線で弁慶を警戒しながらわたしに言う。

「ハッピは怨霊鎮魂使を守る衣服だって。怨霊を召喚した空間にいられるのは、死んだ霊か、この服を着た怨霊鎮魂使だけだって。きっとハッピは、この空間ではこーゆー服に変わるんだろう。あと、召喚空間では、霊とは現代語でしゃべることができるって」

 だが、落ち着いてわたしたちが話せるのはここまでだった。

「おまえたち、何のつもりだ!」

 弁慶がハンパないほどに目を逆立てて、わたしたちを睨んでいる。その険しい目つきに一瞬息ができなくなるくらいだ。

「弁慶……さん、俺たちは怨霊鎮魂使だ。あんたの怨念を鎮める!」

 だから、そういう高圧的な口調で説得しようとすんなっつうの。わたしが北畠翔太をたしなめようとすると、弁慶が「ぬははははっ」と哄笑した。その笑い声もかなり重低音でずんずんお腹に響いてくる。

「それがしを鎮めるだと。聞いて呆れるわ。おまえたちに何ができる!」

 ずいっと弁慶が一歩前に出た。わたしたちは一歩さがる。

「北畠、詳しい話は後にするけど、あんたが召喚士なのね」

 わたしの問いに、北畠翔太は「やっぱおまえが交渉士なんだな」と返してきた。

「じゃあ、目の前にいるのは、あんたが召喚した怨霊、弁慶ということね」

 一応確認する。北畠翔太は「ああ」と短く言い放つ。

「何をぐだぐだ言ってるんだぁあっ!」

 弁慶が、ハンパない迫力で恫喝してきた。本気で逃げたい。でも、でも……。

 ――おまえは希望。遺志を継いで現世を救っておくれ。

 わたしはぐっと拳を握る。召喚士が呼んだ怨霊を説得するのは、代々わたしの家系が受け継いできた職業・交渉士の仕事。つまりは、わたし!

「弁慶さん!」

 叫ぶように切りだした。捨て鉢じゃない。眼前の弁慶を気遣う感情を込めて、名前を呼んだ。おばあちゃんの手紙に書いてあった。交渉士であるわたしの言葉は、温かい言霊として怨霊に伝わる。

 それが、交渉士の能力だ。

 ゴーストバスターみたいに、力づくで怨霊をねじ伏せるんじゃない。言霊で、怨念を鎮める。それが、わたしの仕事だ。

「な、何だ……」

「わたしは弁慶さんが抱えている辛い感情を受け止めたい!」

 弁慶の瞳がチラチラっと揺らいだのをわたしは見逃さなかった。何かをため込んでいる。それが弁慶の中でパンパンに膨らんで、爆発しそうなんだ。だから、結界を破って現世に祟りを起こそうとしている。わたしは攻勢にでる。

「聞かせてください。弁慶さんのことを、そしてあなたが命がけで守った源義経様のことを」

 弁慶は明らかに動揺した。吊り上がった眉が下がる。

「おまえに話して何が変わるというのだ」

「話すことで楽になることもあります」

 わたしは弁慶の目を見つめる。過酷な戦場を駆け抜けてきた者だけが持つ鋭い目つきをしていた。きっと目を伏せたくなるような光景を見てきたのだろう。根本的に、現代人が浮かべる表情とは違う厳めしさがある。はっきり言って、目を合わせるだけで怖い。でも、逃げちゃダメ。わたしはぐっと、前に出る。

 ふと、弁慶の頬がやわらいだ気がした。空気が少し弛緩する。

「おまえは不思議なおなごだ。声が酒のように心に染み入る」

 弁慶がぽとりと言葉を落とした。
 弁慶の目もとが、とても怨霊とは思えない和やかな丸みを帯びる。

 やがて、弁慶が目を閉じた。かわりに口を開く。話す覚悟を決めた感じが伝わってきた。

 昔話をするように、弁慶が主君・源義経のことを語り始める。穏やかな口調で。まずは交渉成立ってとこかな。ひそかに安堵の息をわたしは吐く。でも、しっかり傾聴しないと。

「殿は……戦にかけては鬼の化身のようだった。とにかく強い。戦術眼も、合戦中の視野も広い。発想も素晴らしい。一の谷の戦いで鵯越を駆けおりたときは、本当に爽快な気分だった」

 断崖絶壁の鵯越を馬で駆けおり、平家に奇襲をしかけた戦いのことだ。これで平家軍は総崩れになったはず。わたしは空想にふけったシーンを思い出す。

「壇ノ浦の海戦では、船の漕ぎ手を射た。それによって平家軍の船は機動力を失い、どんどんと我が軍が侵攻していく。これもまた意表をつく見事な戦術であった」

 それも、前に空想の中に出てきた。 

「まあその戦法が、梶原殿のお気に召さなかったようだが」

 弁慶が肩を落とした。ゆっくりと目を開く。

 梶原景時。頼朝に、「義経って自己チューでひどいんですよー。周囲の意見に耳をかたむけずに軍を進めるしー」と義経の悪口を言った人だ。

「平家討伐を成し遂げた我が殿・義経様でしたが、頼朝との仲が悪くなった。殿は頼朝から追われるようになった」

 それが、奥州へ逃げていくことにつながるのね。

「道中、辛いこともあった」

 弁慶が、ひどく沈んだ目をして、両手のひらを見た。

「今でも、手の震えが止まらぬ」

 弁慶が罪にさいなまれるようにうなだれた。無言の時間が過ぎていく。

 これって……わたしは、前に空想した勧進帳のシーンを脳裏に浮かべる。

「安宅の関で、義経様を棒でぶったのですよね。それは辛かったですよね」「ご存知か……」

 弁慶がもの悲しそうに息を吐いた。

「弁慶さん。あなたがそうまでしたから、安宅の関で、義経様は捕まらずに済んだのです。〝主君に真心を尽くす弁慶さんだからこそ、義経さんをぶつはずがない〟富樫泰家にそう思わせることができ、関所を突破したのですから、ぶったことを引きずらないでください」
「されど……」

 ひょっとして、ここでの行為(主君を棒でぶったこと)が、弁慶にとって、何百年を経てもなお抱え続ける悩みの核心なのでは。

苦悶の表情をしたまま、弁慶はうつむいた。時間が過ぎていく。
北畠翔太も、弁慶も、そしてわたしも、誰一人として一言も発しない。

聞こえてくるのは、弁慶の息づかいだけだった。(←死んでるけど、息してる)ハアハアと苦しそうに、重たい息を吐いている。

弁慶が、す、と顔をあげた。

『――』

 ……今、弁慶の心の声が聞こえた気がした。
 何だろう、このモヤモヤ感。

「我らは奥州にたどり着いた。だが、思えば、もう天は我らに味方をしていなかったのかもしれぬ」

 わたしの中でモヤっとした気持ちを昇華できないまま、弁慶が話を続ける。

 弁慶が悔しそうに、最後は涙ながらに語った。

「奥州到着後、間もなくして藤原秀衡殿が病で亡くなった。あとを継いだ藤原泰衡が、我が殿・義経様が住む衣川の館を急襲し……くっ……」

 すすり泣く声が聞こえてきた。

「弁慶さんの最期はとてもご立派だったと、歴史の上では伝わっております」

 北畠翔太が励ますように弁慶に声をかけた。何だ、ちゃんとした言葉づかいできるじゃないか。さすがは上下関係にうるさい運動部。って、いまの運動部はそんなんじゃないんだっけ。

 ぴくびく

 弁慶の肩が、背が、細かく震えた。

 その震えは、泣いている感情とは別の気持ちによるもの。そんな気が、わたしにはした。

『――』

 また、何かが……、聞こえた。でも、はっきりと聞き取れない。
 弁慶は唇をかんで、北畠翔太とわたしを見つめている。

 悔しそうだった。
 すべてを語ったように見えるが、弁慶はまだ何か苦しみを抱えている。

「すべてを吐き出せましたか?」

 北畠翔太が柔らかい眼差しで弁慶を見つめた。

 弁慶は、しばらく無言をたもった後、「はい」と弱々しい声で返事をした。「かたじけない」とも。

 弁慶、あなたは本当にすべてを語ってくれたの? 何百年も抱えていた苦悩を吐き出せたの?

 弁慶がだるそうにわたしたちに背を向けた。
 帰ろうとしているのだ、時空の闇へと。黄泉の世界へと。ひょっとしてこれって、弁慶の怨念を鎮めたことになる? ミッション・コンプリート?

 まさに、弁慶が、背後に広がる暗闇に身を投じようとしたとき――、

「弁慶さん、それって本音ですか?」

 北畠翔太が、声をかけた。いや、言ってしまった。いつものぶっきらぼうな口調で。

 だから、そういう言い方はマズいんだって、たとえ本音は別だとしても、そうゆー感じで聞いちゃダメなんだって、こいつ集中切らしたなと思った矢先、

 振り返る弁慶が目を見開いた。
 最初は驚くような顔つきだった。が、しだいに弁慶の目のはしばしに鋭い光があふれた。ほほが小刻みに震え、顔が真っ赤になっていく。

「これ以上、それがしに何を語れというのだぁあっ!」

 ぎゃあああ! わたしはまた腰を抜かしそうになる。周囲の闇が、気持ち悪いほどにうねうねゆがみだした。

「おのれらぁっ、時空の闇へと引きずり込んでやるっ!」

 弁慶が、袈裟に包まれた太い腕を伸ばす。

 うぎゃーっ!! どうしたらいいの? このまま時空の闇へと放り込まれちゃうの?
 やっぱ、弁慶の本音を聞きださないといけないんだ。そうしないと弁慶の怨念は鎮まらない。でも、本音っていったい?

 わたしは今まで経験してきた女子トーク中の、本音の探り合いを思い返す。女として生きてきた18年間は、絶対に役立つはずだ。口ではああ言うものの、本音は違う。それは、よくあること。表情は何でもなさを装っているのに、心は違うことを叫んでいる。その叫びが――本音。

 そうか!

 弁慶が何度も『――』と、心の声を漏らしていた。それがヒントだ。弁慶の怨念を鎮める鍵だ。それって何? それこそ、わたしの得意な空想をたくましくさせるべき時。そうだよ! 妄想しろ、わたし! そして、弁慶の奥底に秘められた声を、本音をすくい上げなきゃ。きっと、このために、わたしは交渉士であるから。

「あ!」

 ピンときた! あ、あ、あぁあっ! あのとき、前に、空想してた時に、声を拾った。あれは、弁慶の声だった――。

 でももう、弁慶のゴツゴツした手が北畠翔太の首に! 苦しそうに北畠翔太がもがいている。目を逆立てた弁慶が、北畠翔太の身体を持ち上げる! 

 確信なんてない。しょせんはわたしの妄想癖から到達した答えだ。
 でも、でも、北畠翔太を救わなきゃ。何百年も苦しんできた弁慶を怨念から解放しないと! だって、わたしは、わたしも、怨霊鎮魂使だから!

「勧進帳!」

 ほとんど絶叫だった。

 北畠翔太をしめあげていた弁慶の腕がぴたりと止まり、その手がゆるむ。まるで歌舞伎みたいに、目玉をぎょろりとさせ、みえを切る。後ずさりするほどの圧倒的な迫力が弁慶にはあった。

でも、同時に、声が――、――聞こえてきた。

 『我らの戦いは演技された見せ物ではない。それこそ命がけで戦場を駆け、散ったのだ』

 きっと、これが、弁慶の本音。

 弁慶が何百年も、抱えてきた苦悩だ。

 弁慶は、誰にも伝えられずに、独りで思い悩んでいた。
 だったら、わたしたち現代人はそのことを理解している、と伝えてあげたい。
 弁慶の悩みに共感し、苦しみ続けてきた弁慶の心を助けてあげたい。

 いや、助けるなんてタイソーなことはきっと無理だ。
 耳を傾けて、共感する。「そうだよね」と言ってあげる。
 それだけでも、きっと楽になれるはず。私が先祖から受け継ぐ言霊が助けになるはず。

「弁慶さん」

 わたしは逃げない。真正面からぶつかる。弁慶の想いに寄りそう。

「辛い想いをひきずらないで」
「そ、そなたに何が分かる」

 分からないよ。現代に生まれたわたしには、八百年以上前の源平時代のことなんて、絶対に理解できないと思う。

 それでも、

「人間の心は、きっと、ずっと変わらない。勧進帳を歌舞伎やテレビ、映画で、見せ物にされることは、時代の当事者である弁慶さんにとっては、不快かもしれない。でも、演じられることによって、わたしたちは、弁慶さんの熱い想いを感じられます! 確かに、デフォルメ化されたキャラグッズは行き過ぎだと思いますが(←わたし、ちょー反省)」

 まだ、言い足りていない。伝え切れていない!
 だから、心をこめて、言う、伝える。

「義経様を助けようとした、弁慶さんのひたむきな気持ちに、関守の富樫泰家は感動した。だから、そこにいるのが義経様ご本人だと分かっていながらも関所を通した。これは、何百年を経ても変わらない日本人の、ヒトの心の美しさなんです。弁慶さんが身をもってそれを教えてくれました。大切な〝わたしたち人間の心のありかた〟を、歌舞伎などの勧進帳をとおして、後世に生きるわたしたちは知ることができるんです」

 弁慶がはっとした顔になった。そこに怒りの感情は見られなかった。

 弁慶に対して深々と頭をさげる。

「ありがとう、弁慶さん。命をかけて、後の世のわたしたちに大事なことを伝えてくれて、本当にありがとうございます」

 お辞儀の姿勢のまま頭をあげられなかった。
 これは、わたしの本心だ。本音だ。
 弁慶の心の声を聞いたからこそ思えた、わたしのいつわらない気持ちだった。

 と、背中に温もりを感じた。
 え? わたしはその温もりの先――手の差出人を見やる。

 北畠翔太だった。
 ゆっくりと彼が口を開いた。

「『立ち往生』もきっとそうですよね」

 弁慶が、さらなる驚きを示した。口を半開きにし、固まっている。

 北畠翔太が、わたしにならっているのか心のこもった口調で弁慶に語りかける。さすがに学習能力はあるようだ。

「藤原泰衡が、衣川の館を急襲した際、弁慶さんは主君のために身体を張った。全身に矢を浴び、絶命された。『弁慶の立ち往生』と歴史では伝えられております」

 弁慶の真っ黒な瞳が揺れた。

 北畠翔太は語り続ける。

「弁慶さんの死後、多くの創作物で『立ち往生』の光景が華々しく脚色され、物語や芝居、映画、時代ドラマとして演じられました」

 弁慶が、再び目に力を込めたのが分かった。くわっとまぶたが見開かれたのだ。

 だが、北畠翔太は臆さずに、弁慶と向き合った。

「そのことも……弁慶さんにとっては不本意。迷惑な演出ですよね」

 弁慶が薙刀を構えたまま、ゆっくりと目をつぶる。力なく呟いた。

「さよう。まさに命がけで主君を守る戦場だった。矢で射られた者が、倒れもせずに立ち続けることなど……不可能。戦場は、そんな演出ができるような生やさしい場所ではござらぬ」

「おっしゃるとおりだと思います」

 北畠翔太が大人のような言葉づかいで応じた。こんな彼を初めて見た。依然として彼は、わたしに危害が加わらないように守ってくれている。まるで、立ち往生シーンのように。

「我らは、後世の者に感動を与えるために生きたわけではない」

 弁慶の声が熱を帯びる。

「生きるために戦った。主君を守るために戦った。愛する者のために戦った。必死だった。そこに、感動させる物語の余地などはござらぬ!」

 北畠翔太は、今度は言葉を返さなかった。ただ、黙って、弁慶の言葉に耳を傾ける。

 ふと、弁慶から立ち昇っていた空気が、凪いだ海面のように静かなものになった。
  厳しい時代を生き、散った者だけが持つ、切なさだろうか。

 わたしたちは、弁慶が語った本音から、歴史から、学びを得ないといけない。弁慶たちの死をムダにはしたくない。

「すまぬ。おぬしらに怒りをぶつけてしまった」

「弁慶さん。あなたにお会いできてよかったです。あなたが日本人として生まれてくださったことを、わたしは誇りに思います」

 わたしは深々とお辞儀をする。
 北畠翔太もわたしにならい、頭をさげた。

「聞いてくれて、かたじけなかった」

 弁慶も、手に持つ薙刀を地面に置き、ゆっくりと上体を曲げてくれた。

 緩やかな風が吹いた。ふわりと、おでこをなでられる。
 これをもって、怨霊は鎮静となるのだろう。きっと弁慶が祟りを起こすことはない。

 でも……………、崩壊は、突然だった。

「とても不吉な!」

 弁慶が、薙刀を慌てて拾い直す。背後を振り返った。
 わたしと北畠翔太も、弁慶の後ろを見る。

 え――!?

 美晴が、いた。

 ニヤリと笑みを浮かべた顔は別人みたいだ。

「どうして、美晴!?」「一条?」

 わたしと北畠翔太の声が重なる。
 美晴に駆け寄ろうとすると、北畠翔太がわたしの手を取った。「待て!」

「離して! 美晴のあの様子、絶対に変だって」

 だけど、北畠翔太はわたしの手をぎゅっと握り離さなかった。

「あの女、危険な匂いがします」

 弁慶が、わたしを守るようにずいっと立ち位置を変えた。
 北畠翔太が視線を美晴に向けたままゆっくりと口にする。

「この空間に入れるのは、俺たち怨霊鎮魂使と〝死者〟である霊だけだ」

 一瞬、彼が言っていることが理解できなかった。だって、そこには美晴がいる。

「だから、考えられることはただ一つ。一条美晴は、この世の者ではない。結界をくぐり抜けられた霊だ」

 驚きのあまり声をあげられなかった。
 というよりも、信じたくなかった。美晴が、霊……?

 ずりずりと足を引きずりながら、美晴が腰を曲げ、わたしたちに近づいてくる。
 いつのまにか彼女の服装が、おしゃれなワンピースではなく、ボロボロの麻の和服になっていた。
 つやつやと輝いていたはずの髪もぼさぼさだ。肌はシワとシミが目立つ。

「弁慶ぃ~わたしゃぁあなぁ、おめぇがこの場所に現れるんをずっと、ずうっと待っていたんじゃああ。結界に小さな綻びを見つけたときは嬉しかった。黄泉ではなかなか身動きがとれんからなあ」

 聞き慣れている美晴の声ではなかった。どこかしわがれている。

「美晴? いったいどうしたの? そこで何をしてるの!?」

 しかし、美晴はわたしが言うことに耳を貸さない。憎しみのこもった目で弁慶をにらみながら、前進する。

「おまえを守る」

 北畠翔太がずいっと前に出て、弁慶の隣りに立つ。

 美晴の手には、小ぶりの刀が握られていた。その切っ先は、弁慶に向けられている。
 彼女はおぼつかない足どりだった。歩くごとに、ふらり、ふらり、と体が揺れる。

「誰だ、おまえは?」

 弁慶が美晴に向けて薙刀を構えた。

「弁慶さん、やめてっ!」

「誰? 誰と言ったかぁあ、弁慶ぃい」

 美晴が、歩くのを止めた。がくん、と顔をうつむかせる。長い髪が、地面につきそうなほどにバサりとその場で垂れた。

 いっときの静寂の後、

「かかかか」

 冷ややかな笑い声が、美晴から漏れた。

「そうじゃろうな。分からんだろうな。おまえが殺した男の妻のことなど」「それがしが殺した男の、妻じゃと?」

 美晴は顔を下に向け続けていた。その姿勢で、ぷるぷると震えだす。

「おまえは、さも正義ぶった話をしておったのぉお。愛する者のために戦った……、さあぁて、その結果、愛する者を殺された女たちがいたことを、おまえはこの何百年ものあいだ考えたことがあったかぇ?」

 ぞくりと全身に鳥肌が立った。

 美晴が顔をあげる、血の涙を流していた。

「あたしはなぁあ、弁慶、おまえに殺された男の妻じゃああ」

 えええ――――!? 

 美晴は血を吐くように、言葉を弁慶に浴びせた。

「歴史はなあ……おまえたちのような有名人だけが作ってきたものではないぃいっ! おまえに殺されたあたしの夫のように、歴史になぁんにも名を残さぬ者、平和に暮らすことだけを考えて田畑を耕していた者たちもいたんだぇえっ! 源氏、平氏のいさかいごとに巻き込まれた民がいたことを忘れるなぁあっ!」

 美晴の体がぶるりと、ひときわ大きく揺れた。
 この空間も一緒に、ぐらりと揺れた気がした。

「待っとったぁ。この機会を何百年もの間、待っとったぁ。黄泉で霊同士が接触することなどできない。だから、夫の復讐を果たすには、この機会しかなかったぁああ」

 そんな……。いったい何百年もの間、美晴は機会をうかがっていたというのだ。弁慶が、わたしたち怨霊鎮魂使に召喚されるタイミングを、じっと待ち続ける……そんなのいつになるのか分からない。ちょっとした忍耐では、到底成しえないことだ。それだけ、美晴の怨念は深いということなのか。同時に、結界がもう機能しなくなっていることを、美晴の存在が証明しているのだろうか。

「戦とは無縁に暮らしたかったぁあ。夫と、ただ、ただ、平和に暮らしたかっただけなのにぃいっ。強制的に徴兵され、歯向かう者としておまえの薙刀でみじめに殺された夫の無念を思い知れぃいっ!」

 美晴の瞳が真っ赤に染まる。彼女が弁慶に突進した。小刀が冷たい光を放つ。

 だけど、弁慶はまったく避ける気配を見せなかった。
 夫を殺された妻の復讐を、甘んじてその身体で受けようとしている。

「やめてぇええっ!!」

 わたしがあげた金切り声で、美晴が足を止めた。

「どうして殺し合うの! ねえ、美晴。お願い、やめて。やめてよ!」
「お黙りっ!」

 ようやく美晴と目が合う。彼女は、欠けた歯が見えるほどに歯ぐきをむきだしにして、わたしに対して怒鳴った。

「おまえに何が分かる! 現代に生まれ育ったおまえに、あたしの何が分かると言うんじゃぁあっ!」

 彼女は、もう、わたしが知っている美晴ではないのかもしれない。
 涙が零れた。目をつぶりかけて、堪える。ここで美晴に対して目を閉じたら、すべてが終わってしまう気がした。もう二度と、美晴と分かり合えないままに別れてしまうのでは……。

そんなのは、嫌だ。

 だって、美晴は、わたしの友だちだから。親友だから。

「分からないよ。美晴、ごめん、本当に分からない。でも、弁慶さんを刺しても、何も解決しない。殺されたから、復讐する。殺し合う。人間はいつまでそんなことを繰り返すの? もうたくさんだよ。ねえ、美晴。あなたがずっと抱えてきた気持ちを、いまこの場で理解するなんて難しいけど、それでも、わたしは美晴を信じたい。だって、友だちじゃない。わたしたちは三年一組で、一番仲の良い友だちじゃない! 嫌だよ! 美晴が人殺しするところなんて見たくないっ!」
「申し訳なかった……」

 弁慶がわたしを見た。ついで美晴に向き直る。その場で、ゆっくりと膝をついた。

「それがしは、取り返しのつかないことを、生きている時にした」

 弁慶が力なくうなだれた。その首を、美晴の方へと差し出すように伸ばす。

「討ってくだされ。それがしの首を、この場で斬り落としてくだされ。それが、美晴殿の旦那様への供養となりましょう」

 美晴が、一度、わたしを見た。
 目が合った気がするのに、すぐにあやふやになる。それぐらいに彼女の目は泳いでいた。

 美晴が、今度は、弁慶の方へと視線を向ける。その瞳が、風にそよぐロウソクの火みたいに揺れだす。

「美晴」

 わたしの声はもう美晴には届かないのか。彼女が、小刀を逆手に握り、大きく振りかぶる。

「美晴っ、やめて!」

 わたしは弁慶の前におどり出た。

「どけ」

 美晴が短く言い放った。地の底から響くほどの、おどろおどろしい声だった。

「どかないから!」

 言い返し、まっすぐに、美晴を見すえた。

「ならば、」美晴の表情から感情が消えた。「おまえごと、刺す」

 想いは伝わらない……の? わたしは目をつぶりかけた。


 

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