過熱からの冷却としての退屈、社会的規範による暴力からの退屈
全体会議から、引き続き思考を回しています。何が違和感になっているのか。
昨日分かったのは、私の退屈感は一種の防衛反応だったということです。どういう流れが生まれているのかをしっかりと見つめたい。
私の退屈は自分と他者の関係の中で生まれるのでした。他者が時間を無駄に使わせようとすると見ると、私は強い退屈を感じます。我が強く他者に無理強いされるときに防衛する。
それについてもう少し解像度を高めてみたいと思います。
昨日も私は取り上げていたようですが、私は会社が理念を語ることに対して大きな反感を持っています。全くもって何を言っているかわからないのです。正確に言うと、何を言っているのかがわからないのではなく、なぜそれを平気で言うことができるのかわからないと言ったほうが正しい。
言行不一致が目についてしまうのです。より詳しく言うと、言行が一致していないのに要求をすることに対して、搾取を透いてみてしまう。
そのまま夜帰ってきたときの父親です。
確かに父親は会社では何かをしてきたかもしれない、けれども家に帰ってきてからは「誰が金を稼いでやってると思っているんだ」と威張りつばを撒き散らしていました。
家では何もしていないのに、私たちが家事をサボるのを見るとものを投げつけたりする。ものを投げる瞬間のギュッと心臓を掴まれる感触が残っている。暴力を振るわれるという恐怖がある。
その緊張がずっと心のうちにあるのでした。
ところで、退屈というのは多分暴力されたことを見ないようにする自己防衛なのではないかと思ったのでした。
この退屈は、普段の退屈と少し違うような気がします。何か布を被せられたようなものです。こちらの鼻を破壊し、鼓膜を破り、熱を取ってしまうような感情です。
普段の何か新しいものを感じない、同じことをやっているように感じるという感情ではない。
だから、退屈とはほんの少しだけ違う色がついています。
ただ退屈は興味がうすれる感情だと言う観点では同じ物です。そのエネルギーが、対象が薄まってしまったことによるものか、むしろ薄めようとするために恣意的に作られたものか。
いや、もしかしたら飽きた感情に関しても同じなのかもしれません。同じというのは薄めるという方向性に関してです。そもそも退屈は同じものに注意が行き過ぎないように生まれた感情なのかもしれない、という意味においてです。
襲ってくるやるべきことには意味を見出せず退屈ですが、これはやるべきことに対して興味を持ちすぎないように、私の過去がどうにか影響を受けすぎないように防いでいるということでした。
過熱
何を書こうか良く迷います。何を書こうか全く出てこない時がある。本当に退屈で人生に退屈することがある。これは書くことから興味を薄れさせて、オーバーヒートした/しそうになる何かから守ろうとしているということだと思います。
それだけ、続けていることや頑張っていることに対して強いこだわりがある。みんなそうかも知れない。
先日note公式のエディターがエラーを起こして毎日投稿が1分できなかったことがありました。事務局によると、使っているブラウザーが違うので知ったことではないです、との事でした。私は今まで感じたことのないほど怒りを感じました。それはとてもこだわっていたから。毎日投稿することに対して大きな価値をおいていた。とても悲しかった。
いつの間にかnoteに依存していたわけです。
私の性質的に過熱してしまう。書くことに過熱ぎみだったことによって、身体が少しずつ変化していったのだと思います。だから、身体が危険を感じ取って退屈を感じるようにした。ブレーキを引いておいた。
良い機会だったかもしれません。note事務局に対する恨み・憎しみは未だあります。ただ一方でこの過熱して理想・完璧へと進んでしまいがちな私の性質に対して、現実の偶発性がよい影響を与えているように思います。
いつの間にか、ただの結果でしかない些細なnoteの連続記録なんてものに左右されている自分がいるのでした。
「人生は大概において退屈です。」
私は良くこの言葉を口にします。自分の中で伝え合うやり方。書いている途中で自分に言い聞かせ、分かったように話さないといけない時がある。それは過熱に対する実践です。苦しみに淀んで熱しすぎることから離れようとする。
身体につながることによって、過熱・そこからの逃避どちらからも離れることができます。やはり身体を観察することが今の私に必要です。
過熱とその逃避の葛藤の中で、ゴムをピンと張ることに精一杯だと、何故生きているんだろうと絶望するから。絶望が悪いとは言わないけれども同じことを行うことは好きではない。どうしても好きになれない。絶望するなら違う形で絶望したい。
同じことをやりすぎることに関して飽き飽きすること。同じことが多くなりすぎると、意味が薄れて興味が薄れてしまう。全く書きたいことへと繋がっている気がしない。
同じように、目標のために何かをするということも退屈でした。視点が退屈だ。目標のために行うということは、その過程の沢山の情報が薄くなってしまうということ。情報が少ないというのがとても退屈なのです。
意味のある情報を沢山食べていたいのです。同じことを続けると意味のある情報が少なくなる。だから、目標を立てることは途中の全ての過程を無にする方向性であり、大切な情報がなくなってしまう。そのつまらなさ退屈さがあります。
何の話でしたか、退屈から話が広がっていました。そもそも私は全体会議の退屈について深掘りをしたいのでした。それは興味を薄れさせるということだった。
興味を薄れさせる、情報が少なくなる・させること。そういうことを他の退屈さを見て考えてみたわけでした。
ただ搾取する態度・社会的規範への批判
私は特に全体会議で、社長の言葉に違和感を感じました。「私の会社で働くということなので、あなた達は創始者である私の初期衝動のような気持ちに従って努力するべきだと思うんですね」とにやにや話していました。
そういう、会社の倫理を振りかざす方向性というか、規範などを振り回す態度が嫌いです。退屈さとくだらなさを感じ軽蔑します。憤りすらする。人に求めているのに、自分のことを一切言及しないこと。言行不一致。
世間様が私の敵でした。
正確には、社会的な暴力をしてくる共同体への貢献が個人的に怖くてできない。搾取されるのではないか?そういう恐れがある。強い恐れ。
世間様というのは、ただ搾取するという構造です。規範という幻想を刃にし、人を脅しつけるもの。今まではそれに全面的に対抗するか自分を無視して肯定するかだった。これからは懐に入りながらも反逆する、内側から壊していくことが大切。
世間様の方向へ歩み寄っていったほうが良いのではないのか?自分を疑ったほうが良いのではないかと、視点をずらそうとするのは私です。それは、父親が被害者意識が強い人だったことに起因します。自分も悪いところがあるのではないか?と考えることで、その実践を通じて父親を批判している。
湧き出てくる父親像への強い反感・被害者意識があります。被害者意識への被害者意識。こじれにこじれて、それが退屈を強める結果になりました。
だが、私は視点を変えて全体会議を楽しいと錯覚させるというやり方すら嫌なのでした。私にとって全体会議への退屈は受動的退屈ではない。能動的退屈です。世間様への批判的退屈がある。
積極的に興味を薄れさせようとするエネルギー。なので、そこから反発して、「大人になって」割り切ってやる、みたいなことは不自然なわけです。
「そんなちいさなことにこだわらず大人になって」
と言う人達がいます。全く理解していない。おそらく彼らは、全体会議をただ意味が少ないだけの暇な時間、ぐらいの捉え方なのだろうと思います。
私にとって全体会議はそれと全く違う、完全な暴力なのでした。自分の事を棚に上げて人のエネルギーを奪う害虫、テイカーなのでした。思考することをサボって、適当な計画を作って、そのしわ寄せを従業員に対して背負わせようとするような、強く忌むべき害虫。
「仕事をすることで見えてくる景色があるんだよ」
そういう言葉は無意味です。それは対立になる。
「暴力を受け続けることによって見える景色があるんだよ」
それは世間様に与する暴力者と同じになってしまう。私には届かない。
そうじゃないのです。暴力を受けたことに本質的な意味を捉えたくはない。暴力を受けた後の回復にこそ見える景色があるということに意識を移すべきです。
広い意味で暴力を受けることは避けられない。現実は避けられない一撃をどんなときも加えてくることができる。
受容は大人になるために行うわけではないです。ただ受け入れるために受け入れる。受けてしまった暴力は受け入れるしかないわけです。
過熱ではないところの価値を見つめる
全体会議から計画の建て方のヒントを得ること、それは私にとって全力で生きること。過熱。自分に適用したい。
振り返りを立てることが大切だと思うこと。未来と過去の自分の空間を作り出して繋がってあげること。それは生き延びるために必要だと思っていた。だけど、生き延びるのにそこまで大仰なものはいらない。
生き延びるためには、平熱で。
過熱と冷却の葛藤がありました。それと、社会的常識による暴力がありました。退屈という交点でこの二つが混ざり合っている。
平熱で行うことを積み重ねること。そうして、自分の過熱的性質とうまく付き合う。
適当に生きる。身体的限界の次元で生きる。
過熱と冷却の葛藤、力みによって、社会的常識の暴力へ敏感になっている側面がある。
一方原因療法的に脱力することで、暴力を受容していくこと。
また、自分なりの結界をはり境界を作って、対症療法的に癒す。
そしてまた合気道的に、太極拳的に一体化して、暴力が無効化されてしまうことを見る。
形式を決めない、書き出した結果ではなく書いている最中を。
力を入れて抜く。適宜守る。
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