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自己分析 vol.3

特技がある。それは集団からの人探し。
日頃から細かなところを気にしたり気を遣いすぎて、人探しが得意になった。

損得勘定が得意な私が言うのも何だが、気遣いはその損得勘定主義の対極に位置すると思う。根底の本質的が違う一方、損得勘定の軸で考えたら気遣いはかなり損が多い。

それでも気を遣う理由は何か、2つある。
1つ目は純粋な理由。
合理主義な私でも、それに価値があると思うから。価値を噛み砕くと気遣いが全体の雰囲気を作るから。
しなくていいことなのでしない、のであればそれなりの雰囲気にしかならないはず。

2つ目は小さい頃の理由。
態度や礼儀に厳しめだったけれど、1番は理由がはっきりしなかったことによる不信感だと思っている。軸がなく、親の機嫌に左右されていた節もあったと思っている。

礼儀って何だろうと考えることも多かった。

昔仲が良かった人と礼を欠いて関係が崩れたことがあったり、反対に助けていただいた理由が確り礼を重んじたからであったり、
礼儀や丁寧さ、気遣いは要所要所で鍵になっていた。

ただやはり、気を遣って気持ちが良いことより、気を遣いすぎて疲れることが大半なのは確か。だからこそ、どこで気を使うか選ぶことが大切だと思う。

例えば人の家に行くのが苦手。
理由は手土産など考えリラックスできないから。
反対に人を呼ぶのも苦手で、リラックスされると違和感を感じる派。
1度人の家に行く時、手土産など諸々考えていたら疲れてしまい、目的地に着くころには満身創痍で意欲も薄れるということがあった。

ここではたと思うのは、本質を履き違えた本末転倒の話ということ。
友人と談笑を楽しむのが目的なのに義務ではない礼儀の時点で力つきていることが問題。

因みに、似たような歳の人だと尚更気遣いや丁寧さを重視しない人もいる。それはそれで考え方だと思う反面、厳し目に育てられたからこそ心地良くはない。

しかしこれは義務ではないから、水泳教室🏊‍♀️に例えたら
バタ足のクラスでクロールができても、という話である。
水泳の向上でいえば、クロールができた方がいいが、何のためのバタ足クラスかと言ったら
そのレベルの人を育てるため。

物足りないならクロールのクラス(関わる人を選ぶ)に行くか、バタ足のクラスなので、周りのレベルを見下したり文句を言わない(クロールは義務ではないから単に自分ができるだけと割り切る)か、ということ。

やはり丁寧さや気遣いはまだまだ目上の人からの評価や価値観の重きを置くところになりやすいと思う。

だとしたら強みであり譲れないポイントだと思うのであれば、そこから逆算して人付き合いを決めていくのもありだと感じる。

同じように丁寧さを強みとする友人は年上との関わりが多い。

合理主義と一見相反しているようだけれど、やはり私にとって丁寧さや気遣いは重要だと再実感している。
融和点を見つけたいと感じた。

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