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自分を生きる、世界を生きる 〜『幻日のヨハネ』考〜

1.  はじめに 〜鏡の中のサンシャイン〜

幻日とは、太陽と同じ高度の太陽から離れた位置に光が見える大気光学現象のことである」(Wikipedia)。そしてアニメ『幻日のヨハネ』とアニメ『ラブライブ!サンシャイン‼︎』との関係は、これに類似している。よく似た登場人物なのに、全く違う物語。けれどどこかよく似たモチーフやメッセージ。

以下では、「鏡の中のサンシャイン」とも言える(自らが名乗っている)世界の中で、ヨハネやその他の登場人物たちがいかに生きているのか、そして、物語の中でヨハネが見つけた「答え」とは何かを考える。

2. 言葉と歌 〜心を通わせること〜

はじめに言葉ありき。」新約聖書『ヨハネの福音書』の冒頭の一文である。そして、神と共にあった言葉から、あらゆるものが生まれたという。

同様に『幻日のヨハネ』でも、言葉は大きな意味を持つ。「人との交流」を中心に据えた本作品にとって、言葉は人と人とを繋ぐ媒介となるものである。「ただいま」「おかえり」というありふれたやりとり。互いのことを伝え合う何気ない会話。そして、「妹になーれ!!」という「魔法」。このようにして話し手と聞き手は、言葉を用いて心を通わせる。そこには、「情報伝達」とは別の、言葉のもう一つの機能がある。

言葉は多くの場合、音を伴う。時には、歌となって流れ出す。であれば、歌うことは、心の内に秘めていた思いを曝け出すことになるだろう。さらに言えばそれは、「心の音」を鳴らすことに他ならない。つまり、言葉の特別な形式が歌なのである。

そして、歌は言葉と違って重ね合わせることができる。言葉であれば重ねることができなかった思いが共鳴させることができるのだ。一人一人が違うからこそ、それが美しいハーモニーに変わる。違う音色が響き合って、美しい旋律になる。「ユメを語る言葉」より「ユメを語る歌」の方が「今を伝えられる」というのは、そういうことを表していたのかもしれない。

歌は世界だ」という冒頭のセリフをこれと合わせて考えると、一緒に歌うことはそれぞれの世界を重ねることであり、真の意味で心を通わせることなのではないか。1話冒頭のオーディションで、十分な技術を持ち合わせていたヨハネが不合格となってしまったのは、そうした背景や物語や思いが、歌の奥に見えてこなかったからなのだろう。

3. ライラプスとヨハネ 〜生を分け合う〜

ヨハネに不足していた「物語」=人との関わりをもたらしてくれたのは、いうまでもなくライラプスだ。ライラプスは、いかに心を通わせられるかを「知って」いた。そして、生きるとはどういうことか、仕事とはどういうものなのか、人と関わるとはどういうことなのか、ヨハネが自ら気づくことができるようサポートをしていた。

しかし、ライラプスは最初からそれを知っていたわけではないだろう。ヨハネとの仲を育む中で、そして、ヨハネの魔法(=言葉)によってヨハネと話せるようになったことによって、それを獲得していったのではないか。

とすれば疑問になるのが、「ライラプスはなぜ話せるようになったのか?」という点である。もちろん「ヨハネの魔法があったから」というのが部分的な答えにはなるが、「なぜヨハネの言葉が魔法になり得たのか?」という点は解決されないままだ。

ライラプスとヨハネの双方がそれを望んでいて、両者にとってそれが必要だったから」というのがその答えになるだろう。ライラプスはヨハネと話したかったし、一人前になるまで見守るにはそうなる必要があった、そしてヨハネは話し相手が欲しかったし、一人前になるためにはその経験が必要であった、ということである。ここにおいて二人は、「生を分け合った」のである。

生を分け合ったことで、二人の絆はより強くなった。しかしその代償として、離れられなくなった。互いに互いが不可欠な存在となってしまった。そのあり方は「一人前」とは程遠い、「半人前」の姿だろう。だから、ライラプスは声を失わなければならなかった。ヨハネが人と心を通わせる方法を知ったから。そうして「半人前」のヨハネと、「半人前」の喋るライラプスが一つになって、「一人前」のヨハネが生まれたのだ。

そうなった後も、ライラプスはヨハネと生きる。一人の人間と一匹の犬として。共に支え合い、心を通わせる他者として。その姿は、何もヨハネとライラプスに限ったことではない。ハナマルとシシノシンも、カナンとトノサマも、マリと「お化けちゃんたち」も、ヌマヅの人々とヌマヅの動物たちも、皆暮らしを共にしている。当たり前のように共に生きる。そこには「人と動物」の区別は(少なくとも現実よりは)ない。

4. 世界は歌である 〜働くこと、生きること〜

こうしたあり方には、『幻日のヨハネ』特有の「仕事」観が関係しているだろう。仕事というのは、金銭だけが目的なわけではない。「自分の好きなことをすること」「人と心を通わせること」を通して「生きる」ために仕事をするのである。

そこにおいて重要なのは、「独自の価値」は「能力」に限らない、ということである。人々が「対価」を払うのは、一般的に成り立つような=代替可能な、ミクロで見た「能力」ではなく、その人の人となり、生き方、独自の世界、好きなことといったものを知り「交流」することに対してである。そうして、ヨハネの歌がハナマルを、ハナマルのお菓子がヨハネを元気付けたように、互いの好きなことが元気を与え合うのである。そう捉えると、仕事も広義の「言葉」と言えるかもしれない。

そして、同じことが人だけでなく土地にも当てはまる。重要なのは、その土地が持つ「能力」ではなく、そこに誰がいて、その土地や住む人々とどんな関係を築き、どのように生きているかである。自分が「何をするか」は、それによって決まるのだから。だからこそヨハネは「この街には、全部あった」と気付いたのだろうし、「都会でビッグになんてならなくていい」と宣言したのだろう。

5. そして今日も 〜幻日と現実〜

こうして噛み砕いていくと、『幻日のヨハネ』の世界は現実の世界にそのまま持ち込めるような重要な示唆を与えてくれる。その意味で、『幻日のヨハネ』の世界は「鏡の中のサンシャイン」であると同時に「鏡の中の現実」でもあるとも言えるかもしれない。

現実にはいない人々の、現実とは全く違う世界の話なのに、送られる生活のあり方はどこか現実と似ている。そう思わせるような何かかこの作品にはあるのだろう。向こうの世界という「歌」と、現実の世界という「歌」が、異なりながらも、異なるからこそハーモニーを奏でる。そうした経験として、私はこの作品を読んだ。そして次の瞬間には、私は私として、変わらずに変わり続けながら、変化し続けるこの世界を生きる。そう思わせるだけの力が、この作品には溢れていた。


(記事に関する感想やコメントなどあれば、遠慮なく筆者(@nebou_June)にお聞かせください。喜んで拝読します。)



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