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「卒論合同」感想⑥ 〜VI 狩りのレヴュー〜

前回に引き続き、感想を綴ります。これまでの記事はこちらから。(製作委員の方にまとめていただいていました。ありがとうございます。)

6-1. 「大場ななはなぜ星見純那を殺せなかったのか ー狩りのレヴューに見る三島由紀夫の死とエロスー」 たちかぜ(@SteelRain_Lily)氏

まず、切腹における「見る」「見られる」の構造の指摘は興味深かった。その上で、本稿で指摘されていた「舞台」という要素もさることながら「映画」の要素も同様に重要であろうと感じた。というのも、狩りのレヴューは「大場映画株式会社」の映像に始まるからである。『憂国』の議論を踏まえれば、なながフィルムの中に収めてきた映像と同じように、純那の「美しい最期」も複製可能な映像として残すつもりだったのではないかとも感じられる。

そして何より、二度の「切腹」の違いという点が新鮮であった。現代人にあまりにも馴染みのない慣習であるためにその違いをあまり考えていなかったが、言われてみると儀礼性の有無が対照的であり、ななの望む「死」のあり方に変化があったことがありありと感じられた。


6-2. 「大場ななの二面性に関する考察」 ささらふ(@sasarafu17)氏

物語の中で特殊な地位を与えられている「大場なな」の複数性を丁寧に紐解いていてかなり参考になった。特に、「俳優/裏方」と「母/子」という「二つの二面性」がそれぞれ「サバイバルループもの」と「ユートピアループもの」に結び付けられる、そしてこれが、皆殺しのレヴューの「そうでない役」と狩りのレヴューの「自分の役」の対立につながる、という指摘が面白かった。

これを踏まえると、「俳優/裏方」という二面性は進歩的であるのに対し、「母/子」という二面性は停滞的であると言えるだろう。したがって、「皆殺しのレヴュー」を始めたななは進歩的であった(舞台少女たちを生まれ変わらせ、次の舞台に向かわせようとした)のに対し、「狩りのレヴュー」を始めたななは停滞的であった(自らの理想とする"純那ちゃん"に別れを告げる=理想のままで留めおこうとする)。だからこそ、「眩しい主役、星見純那」によって後者の停滞性が喝破され打ち負かされた時にはじめて「再演が終わった」と感じたのだろう。

「進歩的」な大場ななと「停滞的」な大場ななの振る舞いの違いにやや混乱していた部分もあったが、本稿ではある種「二人の大場なな」として「別人」的に捉えられていて、とてもわかりやすかった。その上で言うならば、両者は「別人」ではあるが表裏一体であるだろう。舞台少女たちを皆殺しにすることには「彼女たちを死なせたくない」というユートピア的な憧憬=「母親」的な感覚があっただろうし、純那に自死を迫ることには「自分も過去と決別しなければならない」というサバイバル的な義務感=「俳優」的な感覚があったのではないか。


6-3. 「「狩りのレヴュー」と星見純那が「独立」する瞬間」 ヤスダ(@airgarden_sky)氏

自死を迫ること=「眩しかった」純那の喪失を受け入れること、という視点は非常に納得感のあるものであった。そうしてみると、ななにとって「狩りのレヴュー」の目的は(フロイトの言う)「喪の作業」であり、「メランコリー」から脱することであったと言える。だとすると、自死を迫っているにもかかわらず「君今死にたまふことなかれ」と口にするのは、「死ぬな」という命令的なものではなく、むしろ死んでしまったことの嘆きなのだろう。

しかし、純那は自らの生を取り戻した。失くしていた(亡くしていた)とされていた主体性を取り戻した。その過程が、本稿では鮮やかに描かれていたように思う。


6-4. 「星見純那と「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト」」 弥栄(@gyozaumaumauma)氏

本稿は、純那が支えとしてきた「知」や「言葉」といったものを、あるいはそれを支えにすることを否定していない。むしろ、それは純那独自の「武器」であるとして肯定する。狩りのレヴューに「引用ではなく自分の言葉を」というメッセージを読み込むことが多い中にあって、かなり独自な視点の取り方で非常に面白かった。

確かに狩りのレヴューの中では、「他人の言葉じゃ、ダメ!」という印象的なセリフが飛び出す。しかしそれは、先人たちの「知」や「言葉」が不要だったり足枷になることを必ずしも意味しないだろう。むしろ純那の問題は、それらを使う方法にあったと言えるだろう。「教養」とは「liberal arts」であって、「(自らを)解放(liberate)する方法(arts)」である。しかるに純那は、現状を肯定するために、自分がこれでいいのだと納得するために「知」「言葉」を使っていた。「再生産」ではなく「執着」していたのだ。こうした手段の上での錯誤が純那の問題であって、「知」「言葉」を支えにすること自体は何も問題ではない。本稿は、そうした指摘であるように思えてならない。第一、本作自体にも無数の「引用」が散りばめられているではないか。

「けり」に関連した純那の「過去」観も興味深い。本稿では「過去は現在を形作るものである以上、それとけりをつける必要はない」と考えていたために、純那はけりをつけるべき相手がわからなかったという。その指摘は非常に頷ける。とすれば、本作の主題に最も遠い存在ながら、最も近くもあったと言えはしないか。つまり、再生産=死と再生というプロセスの必要性に関しては自覚的ではないにしろ、過去を糧にして現在を作るというその点においては共通しているからである。そしてこの点は、先人たちの「知」を重視することとも深く結びついているのだろう。


6-5. 「星見純那と『ニュー・シネマ・パラダイス』」 小田島 すわ(@wakasennnin)氏

『ニュー・シネマ・パラダイス』を知らなかったのであまり踏み込んだことを言えないが、本稿を読む限りでは下敷きの一つにあっただろうと思わされる非常に興味深い論考だった。そして両者の相違点は、本作が過去の焼き直しではなく咀嚼し自らのものとする「再生産」的視点が織り込まれていることを示唆していると言える。

その中で気になったのは、テレビアニメ9話の純那による「私の言葉」の問題である。彼女はその時点で「自分の言葉」と「他人の言葉」の質的な違い話理解していたのであろうか。『ニュー・シネマ・パラダイス』における文脈はわからないが、過去からの引用ではないことに力点が置かれるのであれば、それに類比されるのはアニメ9話のシーンよりむしろ「狩りのレヴュー」の方なのではないかと考えた。


6-6. 「相互救済のレヴューとして見る「狩りのレヴュー」 ー星見純那と大場ななが無自覚に抱えていた課題についてー」 歌舞 孝 氏

自分にない視点ばかりで、面白かった。レヴューを「課題」の解決であるとする視点は一応持ち合わせていたが、それを突き詰めて考えると今まで見えてこなかったような構造が見えてくる。

最も興味深く感じた点は、「課題の無自覚性」の議論である。これをさらに進めて考えると、レヴュー開始時に純那とななが考えていた自らの「課題」はそれぞれお互いであった。「私の邪魔をするのなら」と純那はななを「敵」として認定しているし、ななは言わずもがな、純那に自死を迫ることによって「けり」をつけようとしている。しかし、実際はそうではなかった。狩りのレヴューで解決すべき「課題」は、純那は純那自身の、ななはなな自身の「課題」であった。

こうして考えてみると、劇場版における全てのレヴューがこうした構造になっていると考えることもできるかもしれない。すなわち、開始時には「相手」とのけりをつけることが問題であると認識していたけれど、本当に「けりをつける」べきは自分自身とであった、という構造が、普遍的に見られるかもしれない。そしてその「気付き」は、舞台# 3にも見られるものであろう。


(この記事に関する意見や指摘等があれば、ぜひ筆者(@nebou_June)にお聞かせください。)

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