3月4日:普遍的な不幸に君が撃たれて

普遍的な不幸に君が撃たれて
もしも笑わなくなってしまったとしても
僕は明日も笑うのだろうか
笑わない君を見て
何を責ればいいのだろう
誰を責ればいいのだろう

彼も奴も僕もまた、いつ不幸に撃たれるか分からない。昨日も笑いあった友達が笑わなくなってしまう。それが僕は嫌だ。
でも、どうにも避けれるものでもないようで。人間、みんな幸せになるために、生きるために活動しているのに、いつだって行動は裏目に出る。
「こんなことのための時間だったの?」と疑いたくなるような現実が唐突に現れる。「なら、こんなことしなくてもばよかったのにな」と思い、全てが無駄になってしまうような気がする。それでも悪くないと笑い飛ばせることが必要なのだろうか。いつだってみんなは、過去の悲しく辛い話を笑って無かったことにしたがる。「あの時は辛かったよなぁw、あん時のお前やばかったもん」って言われるんだ。
僕はそんな風習がすごく嫌だ。みんな、何故か話題に出して、笑おうとする。僕は今にも触れてしまえば崩れてしまいそうな話があったっていいと思う。そんな自分の醜い記憶さえも愛おしく思えてきて、その一件を経たからこその今の私だ、と言えるような人になりたい。全てが笑い話にならなくても、人格を捻じ曲げられたとしても、偶然にもその先に幸福であると言えそうな今の私がいるのには、あの一件が不可欠であったから悪くない、と僕はひとりで思えるような人になりたい。

全ての話が美化されて、「それでも生きていく」と結びつけることは嫌いだ。「人間は美しい」とか。全てに救いが必要な世の中に思える。「それでも頑張って生きていきます」と考えたくは無い。でも、いつだって結論はこれだ。なにか考えたって死ぬか生きるか。だからそこ、難しいのかもしれない。何を考えたってそうなってしまう。そんなこと言われたくもないのに。暗く辛い悲しい気持ちで深く沈んで終わりでいい。太陽の日差しすら入らないぬるい深海の中へ。

そんな気持ちでいたい。
最後には救いと笑い話。