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1月26日:ガリガリ君は安すぎる。そして、一蘭は高すぎる。

最近の毎日は、andymoriと森見登美彦。
なにかのインプットを求めてる。
言語力とか、語彙力とか、世界を、自分を素敵にするための言葉をもっと知りたいと思うんだ。

今日で大学生1年度が終了する。
ちょうど去年の今頃に入試が始まった。今の大学に受かった入試も2月の頭だったと思う。
あれから、1年が経ったらしい。

きっと僕は、少なくとも大学生活を送っていく上で、受験期の2月のことを「懐かしい 」と言って振り返るんだと思う。来年もそうだ。だからといって特に意味は無い。あの辛かった時期から抜け出したことを名誉に思いたいわけじゃない。時間って言う概念の退屈で不凡な味を堪能してるくらいだ。

そういった具合で、単純に思い出しただけだ。
あのころの記憶を糧に今を大切に思って、誠実に生きることのできる人であればいいのだが、誠実に生きようとしても決意を直ぐに無くして出来ないのが現実だから、できるだけ思わないようにして堕落して生きれることを許してるのが、自分にはバレバレだ。

昭和初期の創作物の「20〇〇年の未来…!」の表記。
空を飛ぶ人に、一体化した服、あやとりみたいに空中に入り組んだ道路と電車。当時から見た今は遥かに遠くて、キラキラと見えていたのかもしれない。でも、現在は悲しいくらいに、あの時と地続きなのかもしれない。そのまま平凡な進化をして、人は何も変われてない。所詮、ずっと同じことを悩み、解決しては、また悩んでどこかに希望を求めてるのかもしれない。
でも、今の僕が2050年の未来予想図を見たらそれはそれで、ワクワクするだろう。

これといった悩みの言語化が出来ないで、ぼんやりと暗い気分に苛まれている。言語化さえ出来れば、悩みに呼応した身の丈にあったしょうもない言葉を一緒に書いてあげる。それがnoteの役目。それがない。
全てを中途半端に抱え込んでるせいで、簡単に手放せるくせに、落とすことを怖がっている。大切な友達にイラつきを感じれば、関係を断つことだってできる。思えば僕はそれをやった。8年来の友人達と飲みに行った時にふと決意して、距離を取ろうとした。今もそうだ。大切で楽しいサークルの面々に苛立ちを覚えている。みんな、大切で面白い人だ。何より、サークルは僕の居場所だ。あそこにいれば、みんなのおかげで自分のことを認めることができる。だから、全部大切。
でも、でも、なんか不穏で怖い。元からなんだか合わなそうな気がしてた。でも、音楽をやればそんなことないこともわかった。でも、それだけでいれる僕では無い。考える頭はプラスを食べてエネルギーにしてマイナスばかり肥大化させる。1度感じた部分を大きくさせてしまった。
僕には苦手な人種がいる。
それは「何考えてるかわからない人」だ。この人は何を考えてどう生きているかというイメージを事実を元に作り上げて結びつけて生きている。友人関係を構築している。無意識レベルに行われていることで、基本的に間違いは無い。その作り上げたイメージが僕の仲良しになれるなら、仲良くする。なれないならならない。それだけだ。
最近の近くにいる友達が「なに考えてるのかわからない人」になりつつある。その友達からは普段から友情、愛情を感じる。というか、僕が感じる友情は愛情と変わりない。その情からなる行為が自分にとって理解し難い人になってきている。「結構俺の事好きなのに?そんな感じ?」みたいな?僕の感じている情に呼応しない行動に頭がバグる。
言語化したところで、いまいちわからない。
別にわからないまんまでもいいか。
最近は解決と最後を求めすぎている。
急かして、決断して後悔しているような今年。
これくらい待ってみようかな、と思う。