根羽村教育長、note始めました。
自己紹介
初めまして、今年の4月から根羽村の教育長になりました。下井敦志(しもいあつし)と申します。このたび「村全体の教育」を考える立場となったわけですが、こうすれば必ずうまくいくといった正解はありませんし、時代とともに求められる教育のあり方は変わっていきます。したがって私だけで進めていくよりも、村のみなさんとたくさん意見交換しながら進めていきたいと思っております。
そのためには
・まずは自分という人間がどんな人間か
・私自身が、根羽村の教育をどのようにしていきたいかを知っていただくこと
が大事と思いまして、noteを始めました。
noteやSNSでの発信にはあまり慣れていないので、暖かい目で読んでいただければ幸いです。
第一弾としまして、簡単な自己紹介をしたいと思います。
氏名 下井敦志(1969.5.18生まれ)
出身地 長野県飯田市
経歴 平成5年 三重大学卒
平成10年 根羽村移住
根羽中学校(現根羽学園)美術講師
ほか2校勤務
平成27年 根羽村議会議員初当選
令和3年 教育長任命
私は学校の美術講師時代に教育というものに触れてきました。その中でずっと感じていたのは「大人は何かを教える役目ではなく、子供たちにちょっとしたきっかけを与えることが役目」だということです。
子どもたちに対して、うまく助言さえすれば、大人が必要以上に介入せずとも、彼らは勝手に試行錯誤しはじめます。そんな「きっかけ」を根羽村の方々とのつながり、自然との触れ合い、座学だけでない体験の中でたくさん作っていけると良いと思っています。
経歴
ここからは私の経歴をざっくばらんに書いていきたいと思います。
私の父は美術教師でした。美術教師の家ってどこもそうなのでしょうか。物心ついた時から、父の書いた絵や彫った彫刻が家にごろごろありました。その影響もあってか、小さい頃から絵を描くのは好きでした。
正直に言ってしまえば、当時は先生という職業に全く憧れはなかったです(笑)。
朝起きると、家出してきたのであろう父の生徒が、いつもの自分の席について朝ごはんを食べている。夜遅くに父の電話がなって、万引きだなんだと言って父が家を飛び出していく。(そういう時代だったのだと思いますが)
父のこんな姿を見て「教師という職業は、なんて大変なんだ」と思い、教師以外の道を選ぶつもりだった一方で、絵を描くことが大好きだった私は大学で美術専攻に進むことにしました。
大学在学中に、絵から彫刻に路線変更した後、大学卒業後は、諏訪の彫刻家の元で修行をしたり、学校で講師を務めながら彫刻家として活動していたこともありました。が、芽が出ず現在絶賛休業中です。
(実際に作った作品)
なぜ根羽村に来たのか
当初は、彫刻をするために根羽村に来ました。
実は、高校の同級生が「ネバーランド」で働いていて、その繋がりから根羽村を紹介してもらいました。根羽村に行ってみると、静かな土地、広い土地がたくさんあり、彫刻をやるにはもってこいの場所でした。
しかし、当時は、「変なやつが引っ越してきた」と村民の方々に言われたこともあったそうです(笑)しかし、当時の村長が「面白いひとが引っ越してきてくれるのは嬉しい」と全面的に取り計らって下さり、引っ越しがきまりました。もしかすると当時から、外の方を受け入れてくださる風土があったのかもしれません。本当に感謝です。今ではその恩返しとして、教育長という仕事を頑張りたいとも思っています。
下井が好きなもの
ここからは本当に余談ですが、他の趣味といえば、学生の時にやっていたPUNKバンドが忘れられず、いまだに引きずっている「見た目はおっさん中身はこども」のような人間です。
他にも、酒が大好きで午後5時を過ぎると毎日飲みたくてうずうずしますし、たばこは12年前に止めたのに未だに吸いたいと思っている意思の弱い男です。性分としては気が短く、すぐカッとなるくせに、その貧弱な体格から喧嘩に勝った記憶が一度もありません(笑)
妻と三人の子供をこよなく愛しておりますが、時おり妻が一週間程度口をきいてくれなくなる原因が自分にある事に気づいていないこともよくあります。赤ちゃんを見かけると抱っこさせてもらいたくて、お母さんたちの周りをうろうろしてしまい、変質者と疑われることもあります。
読書も好きです。
私の愛読書は岡本太郎の『自分の中に毒をもて』です。あの「芸術は爆発だ」で有名な人です。文中では尖った表現が多いのですが、本質をついているなと思います。
最後に
長々と書いてしまいましたが、一年目ということでこれからの自分の仕事にとてもワクワクしています。
村民の方々の力を借りつつ、これから根羽村の教育を盛り上げるために精一杯頑張っていきますので、何卒よろしくお願いいたします。
↓↓教育委員会サイト
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