【個人的解釈】未婚の女

こんにちは、ニールと申します。
舞台「未婚の女」を2公演観劇して、色々と思った事・受け取った事があったので纏めたいと思います。
当然ながら劇の内容について触れますので、ネタバレ注意でお願いします。

……という上記の文を書いてはや1ヶ月経ちました。
何とか書き上げられたのでここに残しておきます。


はじめに

初めに伝えたいのは、今回の劇に明確な正解は無いのではないか、ということです。
劇中、『真実』という言葉が使われます。
マリアは「私は真実を語っている」と言い、ウルリケは「私は真実を知りたい」と問いかけます。
しかし、これらには「自分にとっての」という枕詞が付いているように感じます。

真実とは、物事を一側面から見たものに過ぎない。
大いに主観的なものであると考えます。

つまるところ、劇中で語られた過去の事柄や物事は全てマリアの記憶の中身に過ぎなくて、そこにはマリアの主観が多分に含まれています。
それはマリアにとっては真実かもしれませんが、誰にとっても真実であるとは限らないのです。

印象的な場面

ここからは、劇中で印象的だった場面について考えます。

・エレクトラ

まず一つ目は、「エレクトラ」です。
劇中急にイングリッドが豹変して、エレクトラを名乗りマリアに向けて斧を振り下ろそうとするシーンがありましたね。
正直急な展開で困惑してしまいましたが、このシーンを考えます。

まず「エレクトラ」とは何なのか。
調べてみると、ギリシア神話とギリシア悲劇が出てきます。
愛する父を母が殺し、その復讐として娘と息子が母を殺すという物語で娘の名前がエレクトラです。
そしてエレクトラは4人きょうだいであり、父への思いから生涯未婚を貫いたとされています。

劇中イングリッドは「きょうだいが欲しかった」と独白しており、またエレクトラを名乗った彼女は母を殺そうとします。
つまりエレクトラは、イングリッドが自分に重ねられる存在であって、「母殺し」のメタファーであったのではないでしょうか。

「母殺し」の動機については劇中に色々な要素が散りばめられていました。
病院でのシーンにおけるマリアの「親不孝者!」というセリフや、錯乱したマリアがイングリッドをウルリケと間違えて呼びかけるシーンなどから、この親子が不仲であるらしいことが分かります。
そしてイングリッドがウルリケへ発した「私っていい母親だと思わない?」という問いかけからは、逆説的にイングリッドにとってマリアは『いい母親』では無かったと推測できます。

或いは、「父親への執着」もまた一つの要因かもしれません。
エレクトラについて調べるうち、「エレクトラコンプレックス」という用語を見つけました。
神話におけるエレクトラが父親への想いを募らせていた事から「娘が父親へ強い独占欲を抱き母親へ対抗意識を燃やす状態」を指すようですが、劇中においてイングリッドも時折父親への執着を見せる場面がありました。

・光、あるいは因果応報

劇中、様々な場面で「光」がフォーカスされます。
舞台中央に吊るされた蛍光灯が、話の転換点で光を放っていましたね。

その蛍光灯には、赤い紐が何重にも巻き付けられてぐちゃぐちゃにこんがらがっていました。
マリアはその紐の切れ端をつかみ取り、ウルリケへノートの在処を伝えます。
赤い紐は真実であり、謎であり、血縁であり、しがらみでもありました。

また、劇の最後ウルリケが灯りを消して会場内が真っ暗になって終わります。
「私はなんて馬鹿なんだろう」

このラストシーンがどうにも自分の中で解釈しきれなくて悩んでいたのですが、フォロワーさんのブログで『光は正義や正しさの象徴としてよく用いられる』という文章を読んで解釈が進みました。

裁判のシーンで、瞬く光から眩し気に逃れるマリアと対照的に周囲の人物は光を気にする素振りはありませんでした。
『光は真実、あるいは正義』という解釈をするならば、裁判官も検察官も弁護人も誰も真実などどうでもいいと思っていたのです。

必要なのは、『ナチの手先である被告人と、その被害者である自分たち』という構図だけだった。
結果が先にあって、過程はどうでも良かった。
その是非について問うつもりはありませんが、それは恐らく戦後の混乱から立ち直るのに必要であったことかもしれません。

「それをAであると主張するものは、Bであるとも証明しなければならない。」
劇中で何度か繰り返された台詞です。
これはある種の因果応報のような意味なのかなと解釈しています。

若き軍人の「真実」を暴いたマリアは、自身の「真実」を暴かれることによって裁かれた。

それと同じことはウルリケにも言えるでしょう。

ウルリケはノートを読み解き、その中から「真実」を暴こうとしてマリアをある種追い詰めました。
その報いとして、自分自身の「真実」である男遊びが暴かれて、男に暴行を受けます。

「わたしはなんて馬鹿なんだろう」

「真実」こそが「正しさ」であると信じていた自身を馬鹿だったと自嘲する台詞を最後に、ウルリケは灯りを消して「光」を観ることを止めた。
ラストシーンはそういう意味だったのかなと思います。


総括

今回の舞台はテーマからしてかなり難しく、必死に頭を回しながらの観劇となりました。

「真実」とは、「正しさ」とは何なのか。
そういうことを考えさせられるようないい舞台だったと思います。
深作さんの劇はそういう、観ている側に疑問を投げかけてくることが多くて、世界の色々なことに目を向ける機会になるのでまた観劇したいなと思いました。


以下蛇足。



蛇足

割とセンシティブな話になるので書くか迷ったのですが、メモがてら残しておきます。

劇中マリアとウルリケは真実の報いを受けましたが、イングリッドにはこれといって当てはまるものは無かったように思います。
(真実を暴いたものは真実を暴かれるという応報として)

となればイングリッドは、「真実」を隠し通したことになります。

劇中で一つ不自然な点として、ウルリケの父……イングリッドの夫の事がまったく出てこないことが挙げられます。
イングリッドの父……マリアの夫の話は出てくるのにも関わらず。
そして劇中でイングリッドとウルリケは、「呪われた血筋」という旨の発言をしています。(記憶朧気ですが。)

ここで一つ仮説として、「ウルリケの父はイングリッドの父親だったのではないか」という考えが浮かびました。

エレクトラの項で書いた通り、「エレクトラコンプレックス」という言葉もありますし、イングリッドは父親への執着を見せる場面がありました。
ウルリケが生まれてから暫くは色んな男と夜な夜な過ごしていたという描写もありましたが、これは夫が居なかった理由ともとれますし、ウルリケの父が誰なのか分からないようにしていたのではないかと考えることもできます。

正直深読みのし過ぎな気もしますが、個人的には納得できる仮説なのでここに残しておきます。
もう記憶がおぼろげになってしまっているのでもう一度観たい……

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