創価学会3世だった私が、創価学会の活動を頑張った理由と活動を一切辞めた理由

こんにちは。私は両親ともに創価学会員の家に生まれて、学会員3世として育ってきました。今は30代前半ですが、創価学会の活動には一切参加をしていません。
この宗教団体についてはインターネット上で本当にさまざまな情報が流れており、どの情報を信じれば良いのか分からないかと思います。
私一個人の体験談として、創価学会とはどういう団体なのか?どういう活動をしているのか?なぜ私が活動をはじめるようになり、最終的には活動を一切辞めることにしたのかということを書こうと思います。

目次
1. 創価学会とは
2. 私の生い立ち
3. 活動をがんばった理由
4. 活動を一切辞めることにした理由
5. 私の考える創価学会という組織の本質(宗教組織とはどういうものか?)
6. まとめ

1. 創価学会とは

創価学会を一言で説明をすると、日蓮宗から分離した在家の仏教団体です。
在家とは、お寺でお坊さんが祈るのではなく所属している会員一人一人が、彼らの曼荼羅(=「ご本尊」と呼ばれる)に向かって釈迦の書いた法華経の一部の読経(「勤行」という)し、「南無妙法蓮華経」と言う「お題目」を唱えます。
もともと日蓮正宗の中の一信徒団体でお坊さんと創価学会は一生に活動していました。布教に一生懸命励んだ創価学会の規模が圧倒的に大きくなった後、日蓮正宗のお坊さんたちが在家集団の創価学会を「破門」して組織が分離しました。なお創価学会では、私利私欲に走った坊主が嫉妬して破門した。創価学会こそが日蓮上人の教えを実践していると主張しています。こういった背景もあり創価学会が使う曼荼羅自体は、日蓮正宗の中で法主だった日達という坊主が書いたものです。創価学会は日蓮正宗の信徒団体が独立した団体で、布教に熱心で、お坊さんではなく信者一人一人が勤行とお題目を唱えるという特徴があります。

2. 私の生い立ち

戦後の貧しい日本で生活していた祖母が、近所の友人に布教されて学会員となりました。祖父にも布教して私の父と母も学会員となり、私も兄弟も学会員となりました。こうした2世3世の学会員というのはたいてい赤ちゃんの時に会員となります。地域ごとの100人位があつまる月1回の大きな会合で、「今月の入会者は○○さんで〜す!おめでとうございます!」などと新しい入会者が発表されるのですが、成人して入信した人と一緒に、赤ちゃんも多く含まれています。
私が小さいときに親のマネをして勤行とお題目を唱えている写真が実家には残っています。両親としては嬉しかったのでしょう。
小学校は地元の公立に行ったのですが、私は姉に影響されて自分の意思で中学受験をしました。塾での勉強が面白かったのと、中高一貫校だと高校受験で大好きだったサッカーを中断する必要がないというのが理由です。学校の勉強よりも塾で習うつるかめ算や、毎週のテスト成績の順番で席に座るなど、予備校での学習はゲーム感覚で楽しかったです。中学校は地元の進学校を希望していたのですが、親がどうしても、すべり止めに受けておけと言われた創価中学校も受験しました。希望の学校に受かったのですが、合格後に創価学会員のおじさんおばさんたちが家に次から次へと押し寄せ、「創価中学校合格おめでとう!」と言ってくるのです。自分は別の学校に行こうと思っていたのですが、こんなにも周りの人たちが奨めるのなら…と思い直し、(多分親にも乗せられていたと思いますが)創価中学校への進学を決めました。
創価中学から創価高校へはエスカレーターで進学。大学は創価高校の約4分の3の生徒が内部進学で創価大学には行くのですが、外部の大学を受験するためのクラスに入り、創価大学ではない、別の大学に進学をしました。実は創価大学以外のほとんどの大学に、創価学会の「学生部」が活動する組織があり、大学内で布教活動や選挙活動、学祭の出店(世界平和をアピールする展示など)をしています。組織名は「○○哲学会」とか、「○○研究会」といった名前です。そうした人たちに会ったことがありますか?

私は進学先の大学の「学生部」組織に顔を出し、大学時代に1年ほど熱心に活動をする時期がありました。一時期は一週間のうち7日間創価学会のなにかしらの集まりに参加しているというほど熱心だったのですが、最終的には活動を辞めました。
ただ、創価学会の活動を一切「辞めた」わけであって、実は「退会」したわけではありません。理由は後ほど詳述しますが、一度入会すると退会するのが難しく、まだ学会員である親との関係を悪くしないために一切未活動だけど籍は残っているという状態です。

3. 活動をがんばった理由

私は大学生の時1年ほど創価学会の活動を熱心に行っていました。具体的に言うと、朝晩の勤行とお題目(超熱心な人は1日1-2時間ですが私は1日30分位)、そして各種の集まり(=会合)にでていました。毎週日曜の朝に大学生の集まりに出たり、先発メンバーの集まる会合、水曜日の夜のグループ会、月に1回ある、池田名誉会長の有り難い話を聞く本部幹部会中継、など様々な集まりに参加しました。また、選挙前は人の家に集まって電話で選挙の勧誘をしたり、布教活動のためにそういった会合に友人を誘うなどしていました。一人で行う勤行と題目はともかく、選挙運動と布教活動は本当につらかったです。誰一人布教には成功せず、選挙も電話はした記憶がありますが、投票してくれたかどうかは知りません。このように活動を頑張っていたのにはいくつか理由があります。
1. 毎日目標に向かってすすんでいるように感じる
2. 組織の活動に参加するとものすごく褒められる
3. 人は何かを信じるしかないと思っていた
1つ目ですが、勤行、題目を唱えるときには自分が目標としていることを紙に書き、ご本尊の前において祈ります。自己実現だったり、彼女/彼氏欲しい、お金欲しい、次のサークルのイベントの成功、誰々と仲直りしたいなど、なんでも自由に書きます。
祈り自体の効果に科学的根拠はありませんが、毎朝毎晩目標を見るようにしていたら、その目標の達成確率は上がりそうではあります。また、会合によっては「決意表明」という儀式があって、「絶対に親友の○○に布教してみせます!」とか「祈りで絶対に病気を治します!」みたいに自由に各自の今達成したいことを発表する場があったりします。
2つ目の「組織の活動に参加するとものすごく褒められる」ですが、活動に熱心になったのはこれが一番大きかったかもしれません。会合に参加すると、学会員の人から「来てくれてありがとう」ととても感謝されます。個人的な悩みなども熱心に聞いてくれるし、「祈っているよ!信心で一緒に乗り越えていこうね!」ととても優しいです。
大学生の時に、人に感謝されるようなことをほとんどしていなかった自分にとって「ありがとう」と感謝されるのはとても嬉しいことですし、気分も良いです。
3つ目の何かを信じる必要があるという点について。私は基本的に納得しないと行動に起こさないタイプなので、創価学会の活動をやっていたのは、その理念に納得をしていたからです。創価学会の理念と言うのは絶対的幸福をつかむことで、私はそのような状態になるためには何かを信じることが必要だと思っていました。「自分を信じる」という言葉がありますが、結局あらゆることについて誰かが言った情報を信じて行動しているのではないかという持論を持っていました。例えば、○○大学の教授がダイエットにはこれが効くといったらとりあえずその教授の事を信じる、あるいは別の情報源を信じますよね?何を信じるかが大事であって、その信じる対象として創価学会の教義と言うのは非常にまっとうで信じるに値すると思っていました。
今では「自分で考えて結論づけたこと」ことを信じるべきだと思っています。例えば友人や家族、同僚、上司などとの関係が悪いときに、「その関係改善はどうすれば良いのか?」「なぜそのように悪くなってしまったのか?」をきちんと考えて対処するべきであって祈ればよくなるものではありません。
ただ、自分で考えて結論、決断をするというのはとても面倒で、基本的にはみんな誰かにそれをやって欲しいと思っていると思います。例えば友人と4人で今日のランチなにを食べるか、という判断でも誰かが良い提案をしてくれたら楽ですよね。大学受験で一橋大学と慶応大学に合格して迷っているとして、信頼できる誰かが、自分がどちらかの大学に行くべきというのを理由つきで説明してくれたらどんなに助かるか…
特に死とはなにかみたいなところを突き詰めていくと回答をだしているのは哲学者とか宗教になってきます。自分のアタマで結論を出すには何冊の読書と何時間の思考が必要かと考えるととても大変です。まぁ結果として、様々な宗教が自分の信じる拠り所として世界中に存在しているのだと思います。

4. 活動をやめた理由

1. 活動すればするほど気持ちの浮き沈みが激しくなり精神が不安定になった。
2. 組織のために頑張るのは自分のためでなく幹部のためだったと気付く
3. 布教、選挙活動は無理ゲー。
4. 学会活動よりももっと面白いことがあることに気付く

一つ目は、活動を頑張っていた理由の一つである「毎日目標に向かってすすんでいるように感じる」ということが、結局は活動をやめる理由に繋がっています。
ブログにしろジムにしろ、何かを継続することはとても難しいです。毎朝毎晩祈る活動をするのは、とても毎日なんてできませんでした。やらなかったからどうなるわけでもないのですが、私は学会活動をすればするほど、気持ちに波ができるようになってきました。特に日曜日の朝会で「プチ功徳(=ご利益)」を発表するコーナーができたあたりからは層感じるようになりました。ここでは日常で起きた良かったことをプチ功徳として一人ずつ紹介するように言われました。「そんなのただの偶然を信仰のおかげと思い込んでいるだけじゃん?」と今となっては思いますが、当時は幸せな人生を目指して自分の日常の生活と信仰を関連付けて考えるようになっていきました。
当然日常生活ではいいことも悪いこともあるのですが、私は「プチ功徳」なるものを考え始めるといちいち一喜一憂することになりました。また、一向に継続できるようにならない勤行題目の祈りが足りないのではとなりました。また、活動熱心になると布教活動もやるように勧められるのですが私は気乗りせず、どんどん精神的に不安定になりました。
学会活動を辞めると決めてからは精神的に安定するようになり、「祈りが足りないから今日の試験はうまくいかないかもしれない」といったそれまでの悩みが本当にばかばかしく思いました。
2つ目について、活動にはまった理由として会合に参加すると感謝されると書きましたが、これは後々になって人集めをしていた人の達成感を自分が満たしているだけということに気付きました。
創価学会の組織というのは会社組織のように数字で成果を管理するという特徴があります。大きな会合などでは組織ごとに何人動員しようという目標が定められるのです。会合に参加するととても感謝されていたので、参加してみようというモチベーションがあったのですが、自分が人数目標を構成する一人で組織の幹部がその人数の達成したか否かで喜んでいるのを見て会合に行きたいとは思わなくなりました。
3つ目について、勤行、題目という家で祈る行為はハードルが低く目標に向かって頑張るぞ!という感じで自分自身を前向きにする個人の活動なのですが、布教や選挙活動は本当につらかったです。やる気をだして活動をしていると、次は布教に挑戦してみよう!この素晴らしい仏教をひろめよう!と会合で周りの人にすすめられてしまうのです。自分自身が学会活動を通して良かったこととか、特に今思い返しても何もなかったので本当にこれはハードです。自信がないから、会合に誘った後に実はこれは創価学会で…とか言っちゃうと友人の信用を失い怪しまれます。また、中学高校と創価学園に通っていたため、世間で創価学会が嫌われているというのもそれほど実感がなく、大学の友人に創価高校出身と打ち明けてドン引きされたこともあります。私の親が創価学会に勧誘されて、とても嫌な思いをしたという話も聞きました。選挙の時には自分の携帯に登録してある友人に片っ端から電話するという作業をするのですがこれも死ぬほど嫌でした。
4つ目ですが、私は大学3〜4年の時に海外でに半年ほど生活をしていました。非常に刺激的な経験で、外国人とコミュニケーションをするとても社交的な性格になって日本に戻りました。その後、いろいろな在日外国人の集まりだったり、バックパッカーの集まり、朝会などに参加するようになるのですが、学会活動よりもそちらの方が刺激的、かつ有意義な活動だと感じました。
結局のところ学会活動に参加をして会合に参加することによって友達が増えるのが楽しかったんだと思います。大学2年の夏に高校の時から付きあっていた彼女と別れて寂しくて友人が欲しかったです。毎日メールしてた彼女がいなくなると、携帯のメール着信が激減したので…
特に大学生はサークルに入らなかったりすると孤独になりがちだとおもうので、宗教活動にはまってしまうのではないかと思います。

5. 私の考える創価学会という組織の本質

最終的な目的である「絶対的幸福」は組織を広めるのが楽しくてしょうがないという境涯のこと

学会活動を熱心にやると布教活動することが求められるということを書きましたが、活動熱心な人はみな最終的に布教をします。布教をしない人で組織の上の役職に行く人はいません。創価学会の組織として布教することがとても重視されているのです。
創価学会員のバイブルである、実話をもとに作られ創価学会の組織の広がりを小説とした「人間革命」では、とある学会員の日本人がダンサーとしてニューヨークに行くという話しがあります。結局この人はダンサーとしては成功しないのですが、現地で創価学会の布教に携わり、布教活動が楽しい、楽しいという境涯になってめでたしめでたし。というようなシーンがありました。
これを読んだ私は、「いや?目標としていたダンサーにはなっていないけど?」と心の中で突っ込んでいましたが、似たような話はこの小説にたくさん出てきます。社会的な地位に関係なく、南無妙法蓮華経と唱えたり、信仰の良さを周りの人に伝えることは誰でもできることです。そういったことをする人こそが絶対的幸福をつかむことのできる人たちという風に教えられます。
どんな立場の人であっても目標とするところに到達できるのは良いことです。しかし布教活動が耐えられなかった私はそのような人になりたくないと思いましたし、そのような人生が幸福とは思いませんでした。ちなみに信仰に疑いを持ったことを組織の先輩に伝えたら、日蓮の指導を書いた「御書」と呼ばれるキリスト教の聖書のような本からの引用で、心の鏡が濁ってるとかなんだかで、信仰を疑うあなたに問題がありますよと指導されましたのをよく覚えています。

会員と非会員は「内部」と「外部」の2分類、一度入信して辞めた人は敵となる

創価学会の組織では、会員のことを内部、非会員の一般の人を外部と呼び、区別をします。「人間革命」では村八分にされた創価学会員の人の話がでてくるのですが、創価学会の組織自体も非常にムラ社会に近いです。
全体として、学会員は内部の人を信頼する傾向にあります。同じ宗教を信仰する同志という位置づけで、相手が創価学会員ということが分かると親近感が湧きすぐに仲良くなります。一方外部の人はまだ偉大な仏法を知らない人たちです。テレビで悲惨な人生を歩んだ人が紹介されると、信仰熱心な私の姉は、「この人に仏法を伝えたい!」というような事をつぶやいていました。
まぁ内部と外部の区別があるのは日本の他の組織でもあると思います。しかし、一度入信したのに信仰を辞めた人、退会した人などは、「退転者」として幸せな人生を二度と歩むことができなくなると言われており、みな信じているのです。例えば「間違いない!」のフレーズで一時期人気が出た芸人の永井秀和なんかも退転者として扱われています。創価学会を退会したのか、ただスキャンダルがあったから学会員として扱われないのか知りませんが…
私は赤ちゃんの時に入信しているので、創価学会を退会すると「退転者」、要は裏切り者で幸せになることができない人だと、家族や創価学園時代の友人やみなされてしまいます。
成人する前に自分が属する宗教が決まってしまうというのは嫌ですし、自分は彼らにとって「外部の人」には絶対になることができず、退転者にしかなれないというのが単純に悲しいです。
本当は創価学会を退会して外部の人として家族や学園時代の友人と付きあいたいのですが…

6. まとめ

宗教の教えというのはうまくできていて、人が常に増え続けて、かつ辞めにくい教義があるし、疑いを持ったらそれをただす仕組みになっています。
創価学会は輸血を禁止するエホバの証人のようにとんでもない理論がある宗教ではないです。活動に参加すると友達も増えるし、適度に参加して布教活動や選挙活動を頑張らないポジションでいたら、それほど害がある宗教団体ではないと思います。
とはいえ、赤ちゃんの時に入信させられて退会すると裏切り者扱いされるのだけは本当に納得がいきません。こういうことをする宗教団体は創価学会だけではないと思いますが。私はそういった宗教は嫌ですし、距離を置きたいと思います。
ただ外国人では宗教を信じている人も多く、彼らとどのように接したら良いかという点では私個人の経験からなにかヒントもあるのではないかと思います。
普通に付き合う分には問題がなく、勧誘されたら断るようにすればよいのです。無理に勧誘する人は多くないですし、退転者には厳しくても外部の人には優しいものです。
私は熱心なカトリック信者のメキシコ人の友人がいますが、よく「あなたの幸せを祈っています」というメッセージが来るくらいで本当に良い友人です。なお創価学会の人も「○○を祈っているよ!」という励まし方をよくします。
創価学会の人たちは悪い人ではないのですが、「宗教は成人してから本人の意思で選ぶ」というのが今の時代のあり方なのではないかと思います。また、いろいろな情報から自分自身で出した結論を信じることの方が、大昔に誰かが作った教義をただただ信じて生きるよりもよいのではないかと私は思います。
自分を信じる、自分で考えた結論を信じるということこそが、私たち一人一人が自分らしく幸福に生きていけるコツなのではないかと思います。


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