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カンザスシティ。なぜこの田舎でジャズが?

ある生徒さんと、カウントベイシーの話題から、カンザスシティの話に。
「カンザスシティって、ジャズの中心だったんですか? なんであんな辺鄙な場所に?」
という質問。確かにカンザスシティはアメリカのど真ん中、人口50万人程度の地方都市。かなり田舎ですよね。

ジャズの歴史を追っていくと、NYやシカゴ、発祥の地であるニューオリンズと並び意外に「カンザスシティ」の名もよく出現します。なぜこんな辺鄙な場所がジャズの中心地だったのか。ニューオリンズ〜セントルイス〜シカゴ、というミシシッピ文化圏からも、少し外れている。確かに不思議です。

その理由の一つは禁酒法にあります。禁酒法は1920-1933年まで施行された有名な悪法で、映画「アンタッチャブル」などで見知っている人も多いと思います。あの舞台はシカゴですが、実はその当時、カンザスシティだけは酒が飲み放題だったという事実があります。厳密には禁酒法が施行されていなかった訳ではないですが、実質、ある悪徳政治家により無効化されていました。

トム・ペンダーガストと禁酒法

トム・ペンダーガスト(1873 - 1945)とはカンザスシティで市会議員をつとめた人物です。単なる市会議員ではなく、シカゴのアル・カポネ、カンザスのペンダーガスト、と並び称された顔役でした。この街を仕切っていたドン、ということです。後に逮捕されるこの悪徳政治家のおかげで、禁酒法下でもこのカンザスシティだけはおおっぴらに酒を飲めたし、自然と賭博場やナイトクラブ、キャバレーが活況を呈し、そのことがジャズミュージシャンたちに多くの仕事をもたらしました。そのおかげか、今でもカンザスシティは治安が悪いことで有名です。そういえば今、ふと思い出しましたが、ロバート・デニーロ主演の「カジノ」で、舞台のカジノを裏から操っていたのもカンザスシティのマフィアでした(あのスーパーの裏の秘密の事務所で、こそこそ談合してるシーンです)。イーストウッド主演の「シティヒート」で描かれる暗黒街も、カンザスシティです。残念なことに、治安が悪いこととジャズの発展には大いに相関があり(例えばニューオーリンズのStoryvilleは売春地区ですし、BeBopが生まれたミントンズはハーレムにありました)、社会は複雑です。

加えて、カンザスシティは19世紀後半から20世紀初頭にかけて、鉄道網の要所でした(上の写真は1930年代のカンザスシティ。巨大な鉄道の操車場が見える)。交通の要所として様々な地域からミュージシャンが立ち寄りやすかった、という面もあります。

ラグタイムの町でもあったカンザスシティ

以上はよくある一般的な説明ですが、せっかくなので新たな視点を一つ。セントルイスはラグタイムの中心地だったというのは有名ですが、実は西に少し離れたこのカンザスシティもまたラグタイムの中心地の一つでした。ですが、このことはあまり言及されません。その理由は、やはりカンザスシティというとジャズ、そしてカウント・ベイシーに話題が集中してしまうからだと思われます。

「セントルイス、セデーリア、そしてカンザスシティはラグタイムの発祥にとって重要な三都市だ。セデーリアはラグタイムという車輪の中心にあってもっとも重要だった」

ブラン・キャンベルの証言より、「スコット・ジョプリン」伴野準一著

セデーリア、という町も面白いのですが、これはまた別の機会に。
ただ、このセデーリアには長年、あのスコット・ジョプリンが住み、あの有名な「メイプル・リーフ・クラブ(言うまでもなく、あのメイプル・リーフ・ラグの由来になった店です)がありました。セントルイス、そして西へ向かうとこのセデーリア、更に西に向かえばカンザスシティ。セントルイスだけでなく、この東西に並んだ三都市を中心とした地域が、ラグタイムの本場だったということです。その理由は、この辺りが旧フランス領だったこと(そのことによるクレオール黒人の存在など)と、西部への玄関口(当時の鉄道はこのあたりで終点になっていました)になっていて繁栄した地域だったこと、などが挙げられます。今では考えられませんが、例えばセントルイスは1900年当時は全米で第4の巨大都市でした。(List of most populous cities in the United States by decade / wikipedia)

いずれにせよ、カンザスシティもラグタイムの中心地だったということです。ラグタイムのブームは1915年ごろまでです。とすれば、ベニー・モーテン(1893〜)やカウント・ベイシー(1904〜)は、そのムーブメントをじかに体感していたことになります。1920年代にジャズが生まれる準備が整っていたという訳です。

そんな訳でカンザスシティは、数々の著名なジャズミュージシャンが生まれ、活躍した地としても知られることになりました。カウント・ベイシー、チャーリー・パーカー、ジェイ・マクシャン、ビッグ・ジョー・ターナーなど、後世に名を刻むジャズアーティストたちが次々とカンザスシティでキャリアをスタートしていき、後のジャズシーンに多大な影響を与えることとなります。そしてこれらの中でも特筆すべきはやはりベイシーと並び、チャーリーパーカーの出現でしょう。現代では楽譜通りに弾くイメージの強いラグタイムですが(それも一つの正しい認識ですが)、意外にもラグタイムにも「即興バトル」も存在しました。このことも、チャーリーパーカーが即興を好み、後年、40年代にNYで繰り広げられる激しいジャムセッションを産む遠因になっているといえます。それにしても、パーカーがNYへ進出(※二度目の)することになったきっかけの一つは、またしても先述の悪徳政治家、トム・ペンダーガストが1939年に有罪判決を受け、その支配が終わったことにもありました。

強力なリーダーを失ったペンダーガストの組織は、州の圧力と地元の浄化作戦に屈して崩壊し、ミュージシャンのための仕事と麻薬の供給も激減した

「Bird〜チャーリーパーカーの人生と音楽」チャック・ヘディックス著

何と言うことでしょう。まるでこの悪徳政治家は、バードの為にカンザスを退廃の街にし、そしてまたバードをNYに送り出す為にその支配を終えたような(笑)(そんな訳はなく、単なる偶然に過ぎませんが)、それは冗談としても、ですがもしペンダーガストが検挙されるのがもう数年遅く、バードがNYに進出するのが数年遅れていたらこの時期に既に始まっていたBeBopの改革はどうなっていたことかと思うと、本当に歴史は偶然の連続だとしか言いようがありません。ともかくこのバードを中心にその後、ジャズの歴史は大転換していくことになりますが、これは周知の通り。

ともかく、カンザスシティは1920〜30年代にシカゴやNYと並ぶ、ジャズの中心地だった、というお話でした。そしてその理由は禁酒法が緩かったこと、それと新たな視点として、カンザスシティとラグタイムとの関係について書いてみました。

しかしそんな訳で、お酒って大事ですよね、お酒。(笑)

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