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1964年6月21日

1964年6月、NYから三人の若者がおんぼろのフォルクスワーゲンに乗り込み、メンフィスへと向かいます。
彼らはミシシッピに辿り着くとまずロバート・ウィルキンスを見つけ(彼は既に演奏をやめ、牧師として暮らしていた)、そして彼の口からサン・ハウスの最後の住居とされるレイク・コーモラン(メンフィスから南に30kmほどの場所)という場所を聞き、翌日出かけます。
翌日そこでサンは見つからず、ただ、代わりに「サンの連れ子と結婚していたという人物の父親」を見つることができました。そこから彼らは、その息子→元妻→元妻の義理の母親、と辿り、サンがロチェスターに住んでいる、という情報を聞き出します。
この「三人の若者」は、ディック・ウォーターマン、ニック・パールズ、フィル・スピロの三人で、ディックは後にプロモーター、写真家として、ニックはYazooレコードの創設者として名を馳せることになります。

という、これが例の有名なサンの「再発見」の顛末ですが、これが6月21日のこと。
ところが実はこの日は、フィラデルフィア(ミシシッピ州)で起きた、公民権運動活動家の3人が殺された事件の当日でもありました。ジーンハックマンの熱演で知られる、映画「ミシシッピ・バーニング」で描かれた、あの事件です。その同日に、ウォーターマンら3人がサンを探し、デルタをそこらじゅう走り回っていた、ということになります。

殺害された三人。1964年6月29日(事件の8日後。遺体発見は8月4日)

映画でも描かれた通り、当時のKKKの憎悪は黒人よりもむしろ「黒人を擁護する白人」に向けられていました。例の事件の3人も、うち2名が白人の公民権活動家です。あの最中に、白人3人と黒人(ウィルキンス)が連れ立ってデルタを走り回るということは、相当に危険な旅だったといえます。「ミシシッピ・バーニング」で描かれる通り、白人と黒人が親しく話していただけでも暴行され、黒人の家は焼かれる。最悪の場合、殺され木に吊るされる、という時代です。1955年の「バス・ボイコット」に始まり、57年のリトルロック紛争では「9人の黒人生徒」を守るために、アイゼンハワーは陸軍まで投入しました。そして63年にはあの「ワシントン大行進」が行われます。1964年はこれら一連の公民権運動がピークに達した瞬間だったといえます。「Preachin' the Blues」(これは、サン・ハウスについて書かれた決定的名著です)を読む前は、彼ら三人の探索は単に虚栄心と純粋な音楽的好奇心に動かされた行動(悪く言えば物見遊山的な)という印象でしたが、こうして改めて時代背景を考えてみると、彼らは相当な覚悟のもとに行動していたのだと再認識させられました。そのくらい当時の南部は危険だったということです。彼ら三人の勇気に畏敬の念を禁じ得ません。


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