見出し画像

【スパイク・リーがなぜ「Django」を批判するか】

ずっと見逃していた「Django~繋がれざる者~」(タランティーノ、2012年)をようやく昨夜見ました。面白かったです。前作イングロリアス・バスターズよりも、次作ヘイトフル・エイトよりも全然いい。近年のタランティーノの中で一番良いじゃん、なんて思いました。というのが初見の印象。公開(2012年)当時、スパイク・リー監督がかなり批判していたのを覚えていて、それについての考察です。

スパイク・リー監督は、何が不満なのか

何でしょうね。結局美学の違い、というか。スパイク・リーにとってはあれが、「茶化してる」と映る訳です。ふざけている、と感じるのでしょう。実際、タランティーノは「茶化す」のが真骨頂なので。むしろ彼は「茶化す」ことに命をかけている。だから本当によく研究してる。下地は彼の好きなセルジオ・レオーネなどのマカロニウエスタンもの、それに加え「マンディンゴ」からの引用、黒澤のカメラワーク等々、毎度の如く本当によく研究してる。結局タランティーノのやりたいことは一見「コラージュ」なのだけど、そこしか見ていないと本質が見えない。コラージュ的手法を繰り返すことで、細部、ディテールに宿る本質を描き出そうとしているのが彼のやろうとしていることです。だから(手法はコミカルであれ)ある決定的な極限状況(そこが、多くの場合、”ありえない荒唐無稽な状況だ”と批判される所以)を描き、それを描き出そうとしている。
他方、スパイク・リー監督の場合は、アウトラインにその本質を描き出そうとしている。そしてそのアウトラインをより表現豊かにするためにコミカルという「細部」がくっつけられている。つまり、ディテールから本質を浮かび上がらせるか、アウトラインから浮かび上がらせるか、の違い。ようは「逆」なんですよね。そしてそんなことは両監督のそれぞれの出世作、「レザボア・ドッグス」「ドゥ・ザ・ライトシング」の段階から、明白なのに、と思います。そしてスパイクリーだってそんなことは、もちろん分かっている。ただ、レザボア~の犯罪者や、パルプフィクションのジャンキー、イングロリアス~のナチズム、こられは一般化し相対化することが可能なのに、人種問題、とりわけアメリカの黒人問題は、彼にとってはいまだ相対化することのできないのは、それがいまだ「現在進行形の問題」だから、ということでしょう。また、当事者でもある訳で。だがでは、「いったい、いつまで?」と、遠く離れた島国の住人としては、思います。

(おそらく)KKKの前身として描かれる、ヘンな集団が出てきて、それもちゃんと時代考証できています(KKKの結成は南北戦争直後)。あのとんがり帽子も出自はカトリックだが、学のないKKKは分からなかったのでしょう(KKKは反カトリック)が、その滑稽さもまた「細部を克明に描き出すこと」から浮かび上がらせている。結局、タランティーノはかなり周到で「分かりづらい」のだが、彼の表現の「分かりやすい部分」だけが、大衆に支持されている。であるから、スパイク・リーはホワイトハウスに呼ばれるが、タランティーノは決して呼ばれないでしょう。またそれゆえスパイクリーは反主流を謳った「主流」たり得るし、その点をどう考えているのか、逆にリー監督に聞いてみたいところです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?