♢ 古書店。






季節はもすぐ冬。
騒々しい都会の空は、今にも雪が降り出しそうなそんな顔色をしている。
高校の帰り道、私は夏休みに偶然見つけた古書店に向かって歩いていた。

古い本の匂いが好きだ。
古本は読んでいると本の中の主人公だけでなく、かつてその本を持っていた人の人生も垣間見える。
メモ書きがしてあったり、ボロボロになるまで何度も読んでいたり、気に入った言い回しがあったのかページの端が折られていたり。
そんな誰かの痕跡を見るのがとても好きだ。
ここに来ると色んな時代にトリップしたような気分になる。
しかし今日は古本を漁るために行く訳では無い。

私はあの古書店に、顔も知らぬ気になる人がいるのだ。


マフラーに顔を埋め歩いているとポケットの中のスマホが震えた。
画面を見ると「今みんなカラオケに集まってるんだけど、りょうも来ない??」と友人からLINEが来ていた。
私はかじかんだ手で「今日は寄りたいところがあるから、ごめんね」と返信した。
しばらく画面を見つめていると「おっけー」と可愛らしい猫がハートを差し出しているスタンプが帰ってきた。



夏休み、貴重な部活の休みの日。
家で本を読んでごろごろ過ごしていた私に母が「ご近所から桃を沢山貰ったの。うちじゃあ食べきれないからおばあちゃんちに持っていってくれない?」と言われた。
本もキリのいいところだったので「分かった、行ってくる」と家を出た。

祖父母の家は電車で20分ほどので着く場所にあって、子供の頃は頻繁に遊びに行っていたが、中学に上がった辺りから部活や友達で忙しくなり行く機会が減っていた。

「あらりょうちゃん、久しぶりね、暑かったでしょ?お上がんなさい」
祖母が玄関で出迎えてくれた。
「おじいさん、りょうちゃんが来てくれましたよ」と祖母が大きな声で言うと「おぉ、今行く」と庭の方から祖父の声が帰ってきた。

座敷に座ると「桃ありがとうね、重かったでしょ」と桃を受け取り、台所に行き麦茶を持って戻ってきた。
少しすると「りょうちゃん久しぶりだなあ、すっかり大人っぽくなって」と祖父が縁側から戻ってきた。
「年始に会ったばかりじゃない、そんなに変わってないよ」と返した。
久しぶりに会う祖父母との会話はどこかお互いぎこちなくて耐えきれず、電車の時間を言い訳に家を後にした。
「またいつでもおいでね」
そう言って2人は玄関で見送ってくれた。


帰り道、昔のことを思い出した。
浴衣を着てこの道を通ってみんなで夏祭りに行ったことがあったっけ。
あの神社はどこにあっただろうか。
昔の記憶を頼りに歩き出す。
しばらく歩いていると雨が降り出した。
そういえば朝のニュースで梅雨に入ったと言っていたっけ。

傘を持っていなかったので雨宿りをしようと小さな屋根に入った。
その屋根というのが、古書店の屋根だったのだ。
雨は勢いを増すばかりで止みそうになかった。
止むまで暇を潰そうと、古書店に入ってみることにした。
やっているのか分からない、不思議な空気を放つ古書店の引き戸は古い木の枠組みに、つづれ柄のすりガラスがはめ込まれている。
店の扉を恐る恐る開けると、乾いた木が摩れる不快な音がした。

古い紙の匂いがする。
薄暗い店内は、壁一面に本棚の姿が確認できないほど隙間という隙間に本が詰められ、店の中央には肩ぐらいの高さの乱雑に積まれた本の山があった。

「すみません」と小さく声をかけるが、返事はなかった。
店主は留守だろうか。
本の壁と山の間を進むと、奥に本を手にしたまま丸椅子に座って眠っているおじいさんがいた。
本を読みながら眠ってしまったのだろう。
あの不快なドアの音が聞こえないほど熟睡しているらしい。
起こすのも悪いので、勝手に本を見させてもらうことにした。

今にも消えそうな弱々しい光を放つ電球に、古い紙の匂い。
外からは地面を激しく叩く雨音、時間が止まっているような空間だった。
少し怖くて、なんだかわくわくする。

本棚を見渡すと馴染みのある有名な作家の名前やタイトルが目に入る。
最近では若者も手にしやすいカラフルで可愛らしい表紙の文庫を本屋で見かけるが、これらは文庫よりも大きくて分厚い。
最初に手に取った本は大切そうにケースに入れられていた。
中の本はとてもカラフルな表紙になっていた。
「どこかで見たような」
いつかテレビで見た初版本だと気づいた、あの有名な作家の初版本がこんな人も寄り付かないような古書店の本の山の中に乱雑に積まれているなんて。
怖くなってそっと元の場所に戻した。

別の山に目をやると、くすんだ水色の本が目に入った。
随分古そうだったが、初版本ではなさそうだったので中を覗いて見た。

伊豆の南、温泉が湧き出ているというだけで、他には何一つとるところの無い、つまらぬ山村である。

冒頭だけ少し読み、後はパラパラとめくっていると薄紫色の栞がヒラヒラと床に落ちた。
この本の持ち主は栞も一緒に売ったらしい。
拾い上げると栞に文字が書いてある。

どなたかお話しませんか――。

文通の誘いだった。
古本をかえして文通をしようなんて、そんなどこか昔の小説のようなことをする人がいるのかと驚いた。
裏側を確認したが名前も何も書かれていない、ただお話しませんかそれだけだった。
今の時代にこんな奥ゆかしい人がいるのか、と思ったがいやただの暇つぶしかとも思った。

「ん、おやいらっしゃい」
突然声がする。
寝ていた店主が起きたのだ。
「若いお嬢さんとは珍しい」そう言うと持っていた本を本の山に置き微笑みながら「若い人が見たって面白くないでしょ」と続けた。
突然現実に引き戻されたような感覚がした。
しばらく黙ったあと「いえ、古い本は好きです」と答えた。
持っていた栞と本を元の場所に戻し「お邪魔しました」とそそくさと古書店を後にした。
気がつくと雨はすっかり上がっていた。

家に帰るとすっかり夕方で「遅かったわね、おばあちゃん達と話しこんでいたの?」と母に尋ねられ「うん、そう」と咄嗟に嘘をついた。
次の日朝練があるので夕飯を食べ、その日は早めに眠った。

1週間がたった、部活中も家で課題をこなしている時も。
あの本の栞のことが頭から離れなかった。
返事を書いたら返ってくるのだろうか、そう思ってはまさかそんなことがある訳ないの繰り返しだった。

あれから何度も店に通っては、あの栞の本を読んだ。
どうしてこの本にこの栞を挟んだのか、その人のこと知りたくて何度も読んだ。
そして本を開く度に、今日こそ返事を書いてみようかと思うが勇気が出ずに、季節が過ぎた。



冬になると店主のいつもの定位置の横に白い石油ストーブが置かれていた。
膝掛けをかけて本を読んでいた店主が私に気づき「やぁいらっしゃい、今日は冷えるねぇ」と笑う。

いつものごとく、古本を物色し栞の本をパラパラとめくり終えた頃、店主が話しかけてきた。
「実はね、近々店を畳むんだよ。私ももう歳だし、娘が一緒に暮らそうと言ってくれていてね」
せっかくうちを気に入ってくれていたのに申し訳ないねえ――と漏らす。
私はしばらく言葉が出なくて、手にした本を見つめた。

「本……本は、どうするんですか?」
店主は少し困った表情で「知り合いの店に譲るか図書館に寄贈するか、どーしたもんかね」と言った。
「そうですか」
手に持ったままになっている本を眺める。
「手伝いに来ます」口が勝手に動いた。
店主は驚いた顔をしていた。
「沢山本あるし、大変だから。それに今までタダで読ませてもらったお礼もしたいです」
「そんなこと…」気にしなくていいのに、そう言いかけて「そうかい?じゃあお願いしようかね」と店主は返した。
作業の2日目に来てくれと言う話になり、その日は店を後にした。


当日店に行くと、軽トラックが店の前に止まっていた。
店主は娘さんらしき人と話していて、私に気づいたのか手招きをした。
「手伝いに来てくれた常連の子だよ」そう言って私を紹介した。

作業も2日目で大体の輸送作業は3分の2ほど終わっていたので、昼から始めた作業は夕方には終わっていた。
軽トラックが出発したのを見送ってから、店主に呼び止められた。
「これ、今日のお礼だよ。手伝ってくれてありがとう。」
そう言って、くすんだ水色の本を差し出してきた。
結局、返事を書けずじまいだった栞の本。
「いいえそんな、悪いです」そう言うと店主は「いいんだよ、いつもその本読んでいただろう。持っていくといいよ」そう言って優しく微笑んだ。

バレていたのか、と少し恥ずかしくなった。
差し出されたその本を見て、なんとも言えない気持ちになった。
好きな場所と好きな時間を同時に失うのはこんな気分なのか。
「ありがとうございます、いただきます」そう言って受け取った。

狭い店にぎゅうぎゅうに本が詰め込まれていたのに、今は見る影もなくがらんとなった店はとても、寒そうだった。
「お元気で」別れの挨拶をして、私は家に帰った。

帰宅し、貰った本を本棚にしまおうとした時、本から薄緑色の紙がはみ出しているのが見えた。
「ん?」
おかしい、栞は薄紫色だったはずだ。
引き抜くとそれは栞だった、そしてその栞には

この本を読んでくれて、ありがとう――。

そう書かれていた。



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